◆読書日記.《野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路』》
<2023年2月1日>
こんにちは。先日腰椎椎間板ヘルニアを患ってしばらく読書が滞ってしまっていたオロカメンです。みなさん、おげんきでしたか?
野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路』読了。
先日、山田風太郎の幕末小説『修羅維新牢』を読んで幕末の状況をもっと知りたくなり、ちょうど手元にあった本書を読んだのだが、これはなかなか面白かった。
しかし、本書を読み通すには幕末の歴史知識がある程度必要で、いちいち出てくる単語を調べながら読まねばならなかったので、思っていたほど読み通すのに時間がかかってしまった。
何しろ高校の歴史の授業の面白くなさにスッカリ退屈して、授業中には教科書に隠してミステリ本を読んでいたぼくとしては、本格的にこの時代の状況について再勉強しなければならないほどだったのだから。
という事で、本書を読む際は最低限、この時代の前後の日本史の流れや、幕末の思想の知識、その当時の派閥について大まかに知っておく必要がある。
それにしてもこの当時の派閥争いは複雑だ。
日本国内の権力争いにしても、幕府の中で派閥があるだけでなく諸藩の派閥があり、朝廷や公家にも派閥があり、そこにフランスやイギリスなどの諸外国の思惑も絡んでくる。
それぞれの組織や主要人物に尊王攘夷や公武合体、佐幕思想や開国論なんかの思想が絡んでくるのでそういった部分がこんがらがり易いというのがあると思う。
ざっと尊王論、攘夷論、佐幕論、開国論、尊王攘夷論、公武合体論、公議政体論、討幕論……といった幕末思想のそれぞれの違いについては抑えておくべきだろう。更に、それぞれの派閥が、これらのどの立場をとっていたのかと言うのを理解しておかなければ、本書に出てくる様々な歴史的事件が発生した理由が分からない。
高校生レベルの日本史知識さえあれば十分だと思うが、その上でであれば本書は「長州戦争」に的を絞ってその事情を非常に詳しく説明してくれていて豊富な情報量ながらもスッキリと分かり易い内容となっている。
本書のタイトルとなっている長州戦争というのを著者は、幕府の権威が失墜し、討幕派を勢いづかせてその後ほぼ幕府の「命取り」となるきっかけを作ったと言えるような内戦であったと位置付けている。
この長州戦争は元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の二度行われている。
詳しくはウィキペディア等を確認して頂きたいが、自分の頭の中を整理する意味でも、少しだけこの戦争の経緯に触れておきたい。というのも、本書の内容は10年にも満たない短い期間の出来事を書いているというのに、背景の事情は恐ろしく複雑だからである。
長州藩は当時、文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)の蛤御門の変などを起こした事で完全に「朝敵」になっていた。
幕府は朝廷の本拠地である京都で大規模な武力衝突事件を起こしたとして、長州藩を処分する目的で長州藩領のある防長二州(周防国と長門国)に出兵したのが、この二度にわたる「長州戦争」なのである。
だが、実際その背景は孝明天皇、尊皇派公家、攘夷派公家、会津藩、薩摩藩、長州藩、一会桑体制(一橋慶喜、会津藩、桑名藩)、幕府、フランスやイギリスなどの諸外国などなど複雑な勢力関係の絡む権力争いであり、幕府もその中にあって自身のスタンスの正当性とその威信を示すための出兵だったと言えるだろう。
その当時の幕府のメインの方針であった公武合体路線(朝廷と幕府とが協力してその当時日本を脅かしていた諸外国からの圧力に対処しようという立場)とは逆の立場をとり、単独で攘夷(諸外国の排斥)を行おうとしている長州藩を捨て置けなくなっていたという事情もある。
第一次長州征討は成功裏に終わった。
長州藩はその時、佐幕派(幕府の立場を支持してこの難局に対処しようという立場)が主流になっていたために、すぐに降伏し責任者として三人の家老の首を差し出して事態を収拾した。
……したかに見えた、がこの戦後処理にまた様々な勢力の思惑が絡んできて揉める事になり、あげく「悔悟の様子が見えない長州を征伐する」として再度長州への出兵となったのが第二次長州征討であった。
この第二次長州征討を著者は「致命的な失敗だった」と言い、《やらなければよかった戦争》だったと指摘している。
出兵する大義がなく、そのため諸藩の士気も低く出兵をボイコットする藩もあり、それに対して長州藩はお国の危機として進化一致一和して富国強兵を行っている。
幕府内にはこの出兵に反対する意見もあったが、その意見は受け入れられず、強硬な主戦派の意見に引きずられるようにして第二次長州征討が成されるのである。
長州は第一次長州征討の後、長州藩の中枢部の責任者が断罪せられた事で組織の新陳代謝が促進され、急進派のクーデターによって井上聞多、高杉晋作、佐々木男也などの有能な人材が政権に復帰した。
改革を唱える若い層を潰す様な前時代的な意見を墨守する勢力が去った事で長州の組織はリフレッシュしたと思われる。
更にはその後の富国強兵策でイギリスから軍艦と最新式のミニエー銃を輸入し、兵隊を完全に近代的な銃歩兵とした事で、更に幕府軍との戦力の差は開いた。
長州戦争は、日本の戦争スタイルが中世のものから近代戦にシフトするきっかけともなった戦いだったとも言えるかもしれない。
「生きるか死ぬかの戦闘ではリアリズムしか通用しない」と著者は言う。
幕府軍は防長二州で衝撃的な敗戦を経験するのである。
幕府の考え方の「古さ」を、この敗戦の現場は象徴的に表していたのかもしれない。
槍や刀はもう、全く役に立たなかった。
諸藩の持ってきた火縄銃は言うに及ばず、幕府軍が用意していたゲベール銃さえも長州軍の最新鋭ミニエー銃と比べると全くの旧式。飛距離も命中精度も違い、こちらの弾丸は届かず、相手の弾丸のみが雨あられと降り注ぐ。
更には、幕府軍の着用していた具足・籠手・脛当の類は役に立たないどころか、着けていると弾丸の着弾か所の鎖が体内に入り込み傷が大きくなるのだ。
長州側の銃歩兵は軽装なのでミニエー銃ひとつ持って遮蔽物の間を走り回り飛び回り、鎧兜を着て動きの鈍い幕府側の兵を次々に射殺していく。
この戦いで戦場の常識は一気に覆ったのである。
しかし、このくらいの痛い目に遭わないと、組織の硬直化した意識を変える事は不可能であっただろう。
幕府は第二次長州征討によって、その権威を示すためにやる気のない諸藩を引き連れて無理矢理出兵し、コテンパンにやられて面目を潰されたわけである。
この戦争を注視していた薩摩藩の西郷隆盛が、これによって討幕は可能だと判断する事になり、その後討幕派が勢いづいていく事となるのである。
幕末のこの時期、幕府や薩長が急激に方向転換したのは、その時期に日本に押し寄せて開港や通商条約を結ぼうとしていた諸外国の圧力が遠因として影響していたと言えるだろう。
薩英戦争や下関戦争によって薩摩藩も長州藩も、旧態依然とした軍隊では対外戦争には役に立たないと悟ってその意識は変わった。その長州軍と戦ってコテンパンに負ける事で、やっと幕府軍の意識も変わった。
第二次長州征討の各戦闘の様子に象徴的に現れている通り、それまでの幕府は軍政については全く旧態依然としていて、軍政については恐らく安土桃山時代から進化していない藩も存在していたと思われるほどであった。
昭和の時代、大日本帝国の硬直した体制を変えるには敗戦を迎える事でしか成されなかったように、江戸幕府の硬直した体制が変わったのも、同じく致命的な敗戦によってであった。
日本の古来からの組織構造というものの特徴として、時代遅れが遅れに遅れて手ひどい損害を被らないと、こういった硬直した体制を変えないという頑固なクセを持っているのかもしれない。
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山田風太郎は幕末を扱った『修羅維新牢』にて、慶応4年(明治元年)に江戸城無血開城が行われた際の幕府の対応を、昭和20年8月に敗戦を迎えた際の帝国政府の対応と比較しているのだが、その辺の裏事情をもっと知りたいと思ったのが、ぼくが本書を読むきっかけだった。
両者の比較が面白いのは、日本を支配していた政体が衰退期にある時に、その組織がどういう状態になっているのかと言う条件が割と似ているという点にあるだろう。
これは本書のカバーのそでに掲載されている本書のあらすじなのだが、この部分だけを取り出してみて見ても、どうやらこの時期の江戸幕府が、敗戦時の大日本帝国の状況と似ているらしいという様子がほの伺える。
致命的な状況に至るまで敗戦の総括をする視点が現れず、敗戦の責任者についても曖昧になってしまうあの状況である。
こうも似ていると、やはりこれは日本の組織構造に良く表れるクセのようなものなのかもしれない、と感じてしまう。
つい最近の日本の政権の状況にも似たような事態が見られた。
コロナ禍で感染者が増加し続ける中、もう延期できないとして強行した2021年の東京オリンピックを、「インパール作戦」や大日本帝国が日米開戦に踏み切った当時の政府と同様の愚行だと指摘した意見が当時Twitterでも良く見られた事であった。
一度決めた事を撤回できない、時流に逆らった反対意見を出す事ができない、「弱気」と採られるような決定を採る事が出来ない……そういう政治判断を、政体が変わろうとも為政者が変わろうとも日本は幾度となく繰り返しているのである。
大義のない出兵であるにも関わらず、反対意見を全く受け付けずに行われた第二次長州征討の時も、このような状況があったと著者は指摘している。
このように組織の中に「『行け行けドンドン』の雰囲気」が出来てしまうと「全部局が眼の色を変える。そうなったらももう後戻りはできない」というような事は、日本の特に近現代史では幾度か見られた、後に大失敗に繋がる無謀な判断の典型ではなかったかと思うのである。