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◆読書日記.《宮本常一『庶民の発見』》

<2023年10月3日>

<概要>
日本の農山漁村は昔から貧しかった。そして古い時代からこの貧の問題の根本的な追求が欠けていたのではないか、と著者はいう。本書は、とくに戦中・戦後における嫁の座、私有財産、出稼ぎ、村の民主化、村里の教育、民話の伝承などを通して、その貧しい生活を克服するため、あらゆる工夫を試みながら精いっぱいに生きる庶民の姿を多角的に捉えたものである。庶民の内側からの目覚めを克明に記録した貴重な庶民の生活史といえよう。

本書〔講談社学術文庫版〕・裏表紙の概要より引用

<著者略歴>
1907年、山口県に生まれる。天王寺師範学校卒。武蔵野美術大学教授。文学博士。日本観光文化研究所所長。1981年没。主著は『宮本常一著作集』(30巻)『私の日本地図』(15巻)ほか。学術文庫に『塩の道』『民間暦』『ふるさとの生活』『民俗学の道』がある。

本書〔講談社学術文庫版〕・著者略歴より引用

宮本常一『庶民の発見』読了。

宮本常一『庶民の発見』〔講談社学術文庫版〕

 農民の出で、農民と生活を共にしながらフィールドワークを行って「庶民・常民・農民の内側からその生活を観察した」民俗学者として知られる学者の論文集。

 宮本は百姓を続けながら研究もやっていた人で、日本各地をフィールドワークで渡り続けて生涯に千軒以上の農家に泊まって話を聞き続けた人でもある。
 柳田国男に影響を受けて渋沢敬三の元で働き、日本常民文化研究所に属して、民具や観光の研究で先鞭をつけた人であったとも言えるだろう。

 宮本常一を知ったのは神奈川大学の日本常民文化研究所で働いていた歴史家の網野善彦の本に、宮本が紹介されていたからだった。

 本書の内容からは日本に住んできた一般庶民の歴史を記録したいという著者の考えが伺える。
 歴史というものは大抵は「支配層の歴史」である事が常である。東洋でも西洋でもそれは同じだった。
 自分たちの経緯や由来を記録しておこうという考え方は、精神的にも資産的にも余裕のあった支配層や富裕層の考えだったと言えよう。庶民にそんな余裕はない。

 特に日本の常民は常に貧しかったために、記録する媒体を用意してそれを纏めるだけの余裕などなかった。時間があれば農作業をし、手作業をし、出稼ぎをした。

 記録があるとすれば、それは支配層が垣間見た庶民の記録であったり、地方の有力者の記録であったりといった所をあたらねばならなかった。
 
それ以外だと、庶民の記憶に直接聞くしかない。

 実際、柳田国男は江戸時代から生きる「古老」達に話を聞いたし、宮本も地方地方の家に泊まってよく話を聞いた。

 という事で「庶民の記録」や「庶民の歴史」というのは、編むのが難しい。
 そういった希少な記録を求めて地道にフィールドワークを続けたのが宮本常一だった、と言えるだろう。
 柳田が大学教授として「外側」から庶民の話を聞いて回ったとしたら、宮本常一は庶民の「内側」に潜り込み(今でいうなら参与観察である)、共感を持って採集していたというスタンスであったという。

 自らも農民の出であったという事もあってか、この人の意見はしばしば「農民の代弁者」という意志が見られ、そのイデオロギーを強く受け継いでいるようである。

 で、そういうこの人の考え方を見ていると、あー、ぼくは昔の農村に生まれなくて本当に良かったなァと心から感じる(笑)。

 戦前以前の農村の考え方は、周囲の人と意見を同じくする事を求められるのだが、それは現代でもよく言われている「日本の同調圧力」の比ではないと思える。

 個人と個人の場合でも、大ぜいの場合でも、お互いが同一感覚と同一の言葉の上にたつことが何より尊重されたから、異質のものをしりぞけ、また別々な考え方をさけようとした。農村社会における進歩は現状の欠点をあばいて、別のかたちにしてゆくのではなくて、現在あるものの中から成長の芽をみつけのばすために、みんなが同一方向へ向かって歩いてゆくように仕向けてゆくことだと、古い人たちは考えていたようである。

本書P.115より引用

 農村社会では個人の力は弱く、厳しい自然条件の中で生き抜いていくには、意見の一致した者同士の統一された集団行動が力を発揮すると考えられていた。
 だから、意見の違った者が中に混じっていると足並みが揃わず、集団の力が発揮されない。反対者のために、自分たちの命をつなぐ農作物に被害が出る可能性さえ高まる(因みに、こういう「集団として生き抜くために個を殺して集団に同調する」という考え方の傾向は、軍の末端の兵隊教育の考え方にも似ていると思える)。

 もともと共同体的な社会では、一人の反対者があっても、その社会は秩序を保っていくことがむずかしいものである。なぜなら共同体社会が成立するには、そこで一応は自立自営していくだけの目安と組織が必要で、反対者があると共同体の運営はむずかしくなる。

本書P.121より引用

 農村とはそういう性格を持っているものだからこそ、農村が意思統一を行うためには、非常に多くの時間をかけて寄り合いを行う事もあり(年間60~70回行ったりもするという)、その場にいる全員が納得するまで徹底的に話し合っていたという事例も紹介している。
 これは「多数決」とは明確に違い「全員一致」でなければならないのである。「一人の反対者もいなくなるまでに話しあう(本書P.121より)」ほどだったという。

 だから、農村では集団の考え方に自分を合わせるという事が非常に重要になるのである。
 日本でしばしば論理がねじ曲がり、しばしば集団のために個人が犠牲になってしまう原因も、こういった考え方に根がありそうである。

 農民に生まれたという事は、自分をその村のイデオロギーの枠内に合わせる事を学んでいかねばならなくなるという事だったのだ。

 石見の山中で逢った老農夫は、二十年もまえのことをすぎ去った遠い日のことのように、「昔は」といって話してくれたが、それがすこしも不自然でないほど、いまの村人には二十年まえは遠い昔になってきつつある。
 そうした二、三十年まえを遠いものに思わせるようにした力は、戦後、物の考え方が急に変わってきたことにあった。戦前までは民衆は枠の中で物を考え、物を見ようとした。枠をやぶることはいけないことであり、ゆるされないことでもあった。生きていく一つの苦悩は自分を枠の中へ入れることであった。そういう世界では経験が何より尊ばれた。経験をこえることは突飛なことで、警戒しなければならないことであった。

本書P.118-119より引用

 このように昔の農村の人びとが、同じ村の人間に「同質性」を求めた状況というのは、ぼくにはどこか昭和の時代の企業が社員に同質性を求めたやり方に似ているようもに思われるのである。

 以前の記事で桂幹『日本の電機産業はなぜ凋落したのか』を紹介した際、ぼくは「日本人は新卒社員を一括採用し、定期昇給・定期昇進で長期雇用し、環境も同僚もずっと同じで同質な社員を量産し、濃密な人間関係を築く家族主義的な雇用体系を持っていた」と昭和の時代の日本企業の性質を説明している。
 ここで注目して頂きたいのは、企業も「同質な社員を量産」する事を実践していたという事である。

 昭和の時代の企業も、戦前の農村の共同体的な体質を持っていたのかもしれない、とそう思うのである。
 あるいは、元々がそういった共同社会的な性格を持った人びとが企業に集まっていたからこそ、戦後の企業が同質的な人員に支えられる共同体的体質を自然とその性質としてしまっていたのか。

 農村における共同体的な体質の考え方というのも、昔ながらの日本の戦略思考のパターンに通底する所があるように思える。

 上に引用した様に、昔の日本の農村の考え方というのには「農村社会における進歩は現状の欠点をあばいて、別のかたちにしてゆくのではなくて、現在あるものの中から成長の芽をみつけのばすために、みんなが同一方向へ向かって歩いてゆくように仕向けてゆくこと」という特徴が見られた。

 このように、現状を批判的に検証するのではなく、成功例を伸ばし、経験から一般法則を見つけ出す――つまりは過去の経験を元にして戦略を考えるというやり方は、中央公論社『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』で日本企業の戦略の特徴として指摘されていたものでもあった。

 宮本常一は本書でしばしば農村は変わった、日本は変わったと述べているのだが、上の様に見ていくと、人びとの根本的な考え方のクセであったり行動の傾向であったりだとかいうものは、割としつこく残ってしまうものなのではないかと思える。

 日本の政府が昔から全く同じようなパターンの失敗を繰り返したり、同じようなパターンの組織犯罪が発生したり、と言った事の原因の一つが、こういう所にもあるように思えてならない。

◆◆◆

 本書の前半は、主に著者のフィールドワークによって観察せられた様々な農村漁村の状況を説明していく内容となっている。

 かつて農村というのは貧しいものだった。これは著者からすれば「決して支配者の搾取だけが原因ではなかったようであるが(本書P.5より)」と書いているのだが、要はその貧しさの原因を単に支配者からの要求が厳しかったからという事だけに絞らず、根本的に何が問題になっていたのかという事を追求するためにも、農村の実体が把握されなければならないと、著者はそう考えていたようだ。

 農村の貧困問題の中でも、特に日本で昔から困難な問題となっているものの一つに「耕作地と人口のバランスの問題」がある。

 日本の土地は起伏に富み、平坦な地が国土に対して少ないという事もあって耕せる土地が限られている。

 そういう条件があるのだから、人口ばかり増えて行っても耕地が増えなければ食糧事情はひっ迫してしまう。
 子供が増えすぎると食い扶持が増えるだけだし、だからといって子供が少なくても、昔は病でも怪我でも、今よりもずっと簡単に人が死んだから、下手をするとすぐに跡継ぎがいなくなってしまう。

 開墾できる土地が限られている地域では、様々な方法で人口調整がなされたと言われている。

 深沢七郎の『楢山節考』等の有名な話もある通り、「口減らし」のために行われたのは子供を奉公に出したり養子にやったりという事以外に、老人を山へ捨てに行ったり乳幼児を殺したり、という事例も実際に行われていた。

 特に本書で紹介されている、沖縄県与那国島で行われていた人口調整策は、なかなか衝撃的である。

 沖縄県与那国島は、琉球列島のうち台湾にもっとも近い島であるが、そこには人升田というのがあって、島じゅうの人がその田に入ってみて、ちょうどいっぱいならば、それだけの人数をささえる食料が島内から得られることを物語っていて、人びとは生存をゆるされるが、もしはみだす者があると、それは島の食料では生命を保証することができないとして、殺したといわれている。

本書P.192より引用

 これほど極端ではないにしても、それ以外の日本の各地でこれと似たような人口調整の考え方というのは存在していて、一定以上に人口が増えてしまうと神様の怒りに触れて不幸が起きる等と信じられていた地方も多いという。

 こういった所からも、日本の民衆に昔から「集団として生き抜くために個を殺して集団を優先する」という考え方の傾向が存在していた事が分かる。

◆◆◆

 本書の後半からは、昔の日本の農民漁民の人びとは、上に述べてきたような彼らの考え方や生きるための知恵を、どのように次世代に教育し、継承していったのかという事について、著者自身の経験と民俗学の資料から述べる内容となっている。

 著者は、日本の民衆の文化は基本的に「文字のない文化」としている。

 例えば日本は江戸時代には寺子屋での読み書きの教育はなされていたとは言われているものの、これは日本の農村でも全員が出席せねばならないものではなく、少数の有志が参加する類のもので、明治になって官制の学校制度が作られるまでは農村漁村で読み書きができる者などほとんどいなかったのである。

村の中で文字を必要とするものは、他村民と商売するものか、政治的な交渉にあたっている村役人のたぐいであった(本書P.222)」と言うし、日本の農民が書いた文章というものも中世末期に至るまでほぼ見つかっていないという事からも、農民がその生活で文字をほとんど必要としていなかった事が分かる。

 日本の歴史がほとんど「支配層の歴史」であり、「庶民の歴史」を編む事が困難である理由の一つには、日本の庶民が「文字のない文化」であったからという事情も絡んでいるのである。

 つまり、日本の庶民の文化というものは、伝統的に「口頭のコトバの文化」だというわけである。

 このようなこと(※農作業や漁業、草刈りといった作業)が強い団結のもとにスムーズにおこなわれるためには、そのまえに人々は村共通の観念をまなびとらなければならない。つまり、社会生活の仕方をまなばねばならない。しかも文字をもたない世界では、それをまず言葉としてまなび、さらにフォームとして身につけてゆく。論議をたたかわしていたのでは、古い伝承がほろびるだけでなく秩序がなくなってくる。テキストがないからである。だから古いものをうけついで発展させるためには、一応それをしっかりと身につけ、また言葉としておぼえ、さらに新しい行為や考え方が付加せられることになる。

本書P.203より引用

 このように実践を通して体で覚えていくのが、日本庶民の教育の基本であったと言える。
(余談になるが、現代日本のように社会に出る新人に一番最初に学ばせる新入社員教育の定番がビジネスマナーという「所作・言葉遣い」であるというのは、世界的に見て果たして普通なのか珍しい事なのかどうなのかと疑問に思う事がある。社会的な共通観念を「所作・言葉遣い」として体にしみこませる訓練を行うというのは、日本社会の「集団としての特徴」を象徴しているようにも思えるのだが)

 更に「口頭のコトバの文化」としての農村の教育形態の典型的な例として本書に挙げられているのが「口頭伝承」であろう。

 口頭によって継承されて行く民話や昔ばなしといったものには、村の教育的な側面もあった。

 これが「文字」として受け継がれていたのならば、テキストが一字一句間違わずに「形」としてそのまま残っただろう。
 が、口頭だからこそ、農民にとって違和感のあるものは忘れ去られ、捨てられてしまう。

 すぐに捨てられてしまう民話は、知識のあるものによって「文字」として固定されると、それは『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』といった「説話集」という形で残される事もある。

 だが、基本的に民間に口頭で語り継がれて残されている民話というものには、その地域に住む農民の考え方の傾向が保存されているわけである。

 精神分析学でもユング派は、民話や昔ばなしと言った民間で伝わっている伝承というものは、全く庶民の感性に合わないものや庶民の生活と無関係なものは残らないだろうと考え、古くから伝わる民話や昔話には彼らの無意識の表れがあるものとして民話分析を行ったりするのだが、おそらくその考えは半ば当たっているのではないかと思える。

 例えば民話や昔ばなしに「武人的な英雄譚」がないのは、それが庶民の理想像と合致していないからでもある。
 それに対して民間に伝わる昔ばなしには、ある程度農民らの理想とした人物像が示されているのである。

 昔話をよんでいると、農民が求めたもの、理想としたものが、何であったかがよくわかるのである。愚直だが誠実で、決して権力には屈しない。愚かでなまけ者にみえても、三年寝太郎は千町歩の荒地を美田にするために寝てもさめても考えていたのである。一般の人にはそれがわからなかったまでで、愚人変人にみえてもけいべつしてはいけなかったのである。そして人間は寛容であらねばならず、寛容は人間のもっともとうとい美徳の一つであることが昔話の中にはしきりにとかれている。また長者の婿になる下男の話など、ほんとうの愛情さえあれば階級などたいして問題でないことを教える。農民として、そういう考え方や見方を生命の一部として、からだにしみこませることが、村という共同体の中で生きてゆく上に何よりたいせつなことであった。

本書P.239-240より引用

 また、こういった日本庶民の「口頭のコトバの文化」の特徴を見ていくと、今年のぼくの課題であったソシュール的な言語学的視点から見ても興味深いものがあった。

 現在、昔話や民話と呼ばれるものは、民俗学によって様々な書籍として記録されているが、重要なのはそれらの説話は全て「口頭のコトバの文化」によって継承して来た「オト」としての言葉だという点にもあるだろう。

 本書でもしばしば指摘されているが、こういった民話や昔話というものは、語られる「場」や「時間帯」、「語り方」といったものは無視できない重要性があり、語り部についても気がのらない時や適切な時間帯や場所でなければ話をしなかったと言われる。

 必ずしも「これから民話を話す」とハッキリ決めてから話していたというわけでもなく、世間話や伝説が挟まっていたり、内容も話者によって違っていたりするそうだ。

 昔話をする日が決まっている地域もあり、それを聞く子供らは着物を頭から被りながら聞くといったスタイルが決まっているようなものもあったという。

 話し始める語り部のテンションがのってくると独自のリズムを持って語られるようになり、独自の語り口調もあった。

 つまり、「文字に記録された伝承」では伝えられていない口頭伝承特有の様々な「言外の演出」があったわけで、本に残された伝承はソシュール的に言えば「死んだ言葉」と言えるのかもしれない。

 文字による記録というものは、その時代のものが「固定化」されるからこそ意味がある。
 そういった「古いものを"そのままの形"で残す」という事では、民間伝承を文字に残す意味があったのだろう。

 だが、「口頭のコトバ」というものは常に人々の間に渡って活発に流通し、柔軟にその意味や形を変えていくからこそ「生きているコトバ」たりえるのであって、記録され固定化した言葉が「形が変化しないコトバ=死んだ言葉」と言われるのは、その言葉が人々の間で流通せず「今の言葉」ではない「過去の言葉」になるという事を意味しているのである。

 こう考えると、著者がかつて語った「変わりゆく村」の内、現代最も変化が大きかったと思えるのは庶民の「文字のない文化」から「文字のある文化」への変化ではなかったかとも思えてくる。

 もはや日本人の「同質性」というのは、「村」の中だけの話に収まらなくなっているのである。

 こうした村生活の統一は日本では村落生活の内部の矛盾からというよりは、外からの刺戟によってこわされていった。まず学校教育による「よい言葉」のしつけがあり、ラジオ放送がおこなわれるようになって、ラジオ言葉が人々の言葉を支配するようになってきた。村の生産も農業以外に大きく分化してきた。そのことが、いきおい新しい感覚と新しい言葉をもたらした。
 戦後、村々をあるいてみて、若い人たちの間からはいちじるしく方言がきえつつある。それだけではない。権威ある言葉が凋落してしまっている。相手をときふせるに短い言葉では不可能になってきたことである。それは一つのシンポであったろうが、たえず外部のものに刺戟され、外部社会によって左右せられる感情生活がうまれつつある。

本書P.117-118より引用

 これもソシュール関連の記事で紹介した事だが、言葉を同じくするという事は、思考様式を同じくするという事でもある。

 日本の明治以降の教育は、まるで国民が一貫して同一文化を歩んできたかのように教えているものだが、本書の前半部を読んでみるだけでも、日本は地方によってその文化も言葉も基本的な考え方もかなり違っており、歴史家の網野善彦も日本は多文化であったと指摘している。

 そうった地方の文化差が縮まった背景には、学校教育による「コトバの統一」というものも原因の一つとしてあっただろう。

 だが、現代そのように「文字のある文化」へと変化した庶民生活の中でも、上に述べたように、どうやら日本のムラ社会的な「同質性」という考え方の根は残り続けているらしい。
 日本中を流通するようになったコトバは、今度は日本各地にいる人々に同質性を広めてしまっているではないか?と思えなくもない。

 ぼくからしてみればつくづくイヤな事なのだが、様々な伝統を変化させてきた明治からの日本の近代化政策であったが、この「集団を生かすために個を殺す」昔ながらの民間の考え方の根っこというものは日本人の思考パターンとしてしつこく残っていて、それは現代でもしばしば国民が集団を指揮する権力者に付けこまれる原因にもなっているのではないかと、そういう風にも思えてしまうのである。


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