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◆読書日記.《工藤綏夫『人と思想22 ニーチェ』に見るニーチェの人物像――シリーズ"ニーチェ入門"1冊目》

※本稿は某SNSに2021年3月20~21日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 工藤綏夫の『人と思想22 ニーチェ』読了。

工藤綏夫『人と思想22 ニーチェ』

 この『人と思想』シリーズは名前の通りに歴史的人物の思想をその生涯と共に紹介する著名なシリーズ。
 本書では前半がニーチェの生涯を、後半でその思想を概観していくという内容になっている。


◆◆◆

 本書によればニーチェはとてもクセの強い人物だったようで、孤立し易かったようだ。

 ただ、「クセが強い」とは言っても悪辣な人物だったというわけではない。
 逆に、非常に誠実な人物だったようなのである。
 しかし、この「誠実」の前には、「融通が利かないほどの」という形容が付いてくるからこそ「クセがある」としか言いようがなかった。
 馬鹿真面目で、几帳面。他人から「変人」と言われるほどだったそうである。

 例えばニーチェが学生時代、ボン大学でとある学生団に所属していた際、彼は酒を呑んで歌い、踊り、騒いでいた同級生らを横目に、黙々とギリシア悲劇を読み、シューマンの墓に花環をささげに行ったりと、当時の学生離れした行動が目立って級友から「変人」扱いされていたのだという。

 それだけではなく、潔癖症な性格のニーチェはこの学生団に対して「高く厳しい道徳的見地から無遠慮な改革提案」をつきつけて公然と非難するといったような事もして、級友らにとても敬遠されていたのだそうだ。

 このときニーチェ、まだ20歳の若者であった。

 ある時、ニーチェがボン大学で慕っていた文献学教授のリッチェルがライプツィヒ大学に移ると知ると、ニーチェも教授を追って大学を移籍したという。

 ボン大学で所属していた学生団は、せめて最後くらいは……と言う事でニーチェに「リボン章贈呈による名誉ある退団」を提案し、リボン章を贈ったという。

 だがニーチェは……「この学生団は自分の意に沿うようなものではなかった、自分にとってこの会の形態を現状のままに耐え忍ぶのは至難の業であった、今や貴会との絆は断たれた。自分は決然として貴会に別れを告げるのである」といった感じの趣旨の手紙と共にリボン章を学生団に送り返したのだという。

 嗚呼、この不器用さよ。

 また、こんなエピソードもある。

 学生時代のニーチェはある時ひとりケルンに遊んでいた。
 現地の案内人を雇って各地を回っていると、案内人はニーチェを娼館に連れて行ったのだという。艶やかな衣装を纏った何人もの娼婦に囲まれたニーチェは若者らしく狼狽した。
 やがて彼は「その席では唯一精神的な存在であった一台のピアノ」に駆け寄り、それを引いた事でやっと心の余裕を取り戻したそうで、学生ニーチェはその時、娼婦には指一本触れなかった……などと言う話が伝わっているのだそうだ。

◆◆◆

 ニーチェは高名な牧師の家に生まれ、当然のことながらキリスト教の影響を強く受けて育ったが、その彼が作り上げた思想が『アンチ・クリスト』であり『偶像の黄昏』であり、「神は死んだ!われわれが殺したのだ!」の『ツァラトゥストラ』であったというのは妙な事にも思える。

 そのほとんどにキリスト教批判の内容が入っているのである。ニーチェの思想にキリスト教への憎悪を見て取る人もいるほどだ。

 だが、ニーチェの人生やその影響関係を考えると、どうもキリスト教憎悪の感覚が入り込む余地があったのかどうか疑問に思えるのである。

 それよりも、本書で書かれているように大学で教え込まれた古代文献学にかかわる批判的、合理的、実証的な学問態度の影響が強いのではないかと思う。

 彼は学者としては「あまりに誠実すぎる」人物だったのかもしれない。

 だからこそ、触れるのはタブーだとされる事でさえも容赦のない、ラディカルな姿勢を貫いたからこその「孤立の人生」だったのであり、時代を超越した思想を持っていたのであり、それ故にニーチェ思想は未だに西洋思想史の中ではほとんど稀なユニークさを保っているのではないだろうか。

◆◆◆

 ニーチェはそのクセの強い性格からか、俗世間からの「変人」扱いであったり、なかなか自分の思想にも性格にもバッティングする事のない友人や恋人に巡り合わなかったりしたために、ずっと孤独を貫き、生涯に渡って親密であったのは妹一人だけだったという、傍から見るとなんだかサミシイ生涯を送っている。

 しかも、「勉強のし過ぎ」のためか極度の近眼で、ニーチェ自身が「わたしは自分の三歩先の世界さえも見えない」と言っていたそうで、そのために愛国心に燃えながらも兵役検査に落ちてしまったという苦い経験をしている。

 それでも無理して看護兵だったり雑役婦としてやっと兵役に就いたものの、またもや近眼のためか、馬に乗りそこなって胸を強打。これによって数日間寝込むほどの重傷を負った。

 体だけは頑強だったのだが、この時の怪我がきっかけでニーチェの体調は段々と悪くなる。

 また、親譲りの頭痛持ちで、これには生涯に渡って苦しめられたらしい。

 ニーチェは、こういった病苦と孤独に見舞われた一生だったようだ。

 だが、それでもニーチェの思想にはそういった病苦に悩まされる人間の脆弱さと言ったものは感じられない。
 彼の思想は常に、生の称揚と運命愛に満ち、常に自らを切り開いて超克する鋼の意識を謳い上げている。
 そういった「弱い人間を力強く励ます」かのような彼の思想だからこそ、ニーチェの思想は現代でも広く受け入れられる所があった。

 彼の頑固さ、意固地さというのは、彼の孤高な精神的貴族主義、英雄的個人主義という基本思想に接続されている。

 ニーチェの思想はしばしばキリスト教道徳を批判し、当時の西洋世界にはびこるキリスト教的悲観的ニヒリズムを非難したが、これは上にも書いたように「キリスト教が憎い」という事ではなかったのではないかとぼくは思うのだ。

 彼は何より「凡俗」を嫌った。世俗嫌悪の傾向があったのだ。

 だからこそ、孤高の芸術家だと思っていたワーグナーが大衆に受け入れられ、受け入れられた事で浮かれ上がり、よりエンターテイナーのように大衆に迎合しようとするワーグナーの姿勢を見て失望したのである。これはニーチェの人生、最大級の失望だった。

 世俗的な凡庸さを嫌い、精神的な貴族たらんとしたニーチェとしては、おそらく何としても弱音や気弱な事は言いたくなかったのだろうと思う。

 そのラディカルすぎる精神的潔癖症が彼を孤独にし、人を遠ざけ、西洋常識を苛烈に批判したために思想界からも冷たい反応をされながらも、彼は孤高を守り切った。

 それだけでなく、彼はそれを「然り」と肯定した。肯定する思想を自らに編み出したのだった。

 それが晩年の『ツァラトゥストラはかく語りき』に出て来る「永劫回帰」の思想であり、「運命愛」の思想であった。

 ニーチェの思想は基本的には「弱者よ、強くあれ!」の思想だと、ぼくは思うのである。

 ニーチェの生涯を概観した後で見てみればそれはどこか、病苦に悩み、孤独に苛まれるニーチェ自身にと向けられた思想でもあったようにも思われるのである。

 だがニーチェが亡くなり、彼の思想が権威化された後年「弱者よ、強くあれ!」の考えは、「弱者よ」のニュアンスが弱められ、ナチス政権などの強権主義・権威主義的な思想に利用されたし、それがされやすい思想だったのかもしれない。

 20世紀以後の彼の思想界における影響力は、今更ぼくが言うまでもない。

 本書に書かれている晩年のニーチェは、片頭痛や持病を抑えるための服薬やその他の病気(脳軟化症とも脳梅毒とも言われる)によって狂気に淵に追いやられた。

 既に執筆活動もままならなくなった晩年になってからようやく、ニーチェの評判は上がり始める。

 病床にいても二―チェは、憂いに沈む妹に「何を泣いているのだい!私たちはこんなに幸福ではないか!」と励ましたという。

 やっと認められだしたニーチェを慕って訪れた客に対してニーチェは病床から「大きな優しい目で迎え、親し気にその手を差し出して歓迎の意を表した」という。

 世間の評価は、彼には遅すぎたのである。


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