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◆読書日記.《ジョルジョ・デ・キリコ『エブドメロス』》
<2023年9月1日>
ジョルジョ・デ・キリコの幻想小説『エブドメロス』読了。
![](https://assets.st-note.com/img/1693649256988-VxbhIxUvs9.jpg)
デ・キリコは有名な20世紀絵画の巨匠である。
その奇妙な作風を「形而上絵画」と称してアポリネールやブルトンに称賛され、後のシュルレアリスム運動に大きな影響を与えた画家でもある。
本書はそのデ・キリコによる長編幻想小説である。
「小説」とは言っても、本作に順を追って説明できるような「あらすじ」や「ストーリー」といったものはない。
この小説は、主人公エブドメロスが、自分の様々な考え方を示し、弟子たちや友人らにそれを話し、周囲の人々の様子を観察して考えたり、街中の光景を見て回ったりするというシーンが、前後の脈絡があまりない状態で延々と続いていく内容なのである。
油断しているといつの間にか場面転換していたりする。
「ところで~」と言ってちょっとしたエピソードを語るのかと思いきや全く関係のない話が数ページに渡って続いたりと、前後の因果関係の無い話が延々と細切れに続いていくイメージであった。
神話で言えば所謂ゴンドワナ型のようなとりとめのなさなのである。これがいっそう、この小説を象徴的に見せている部分でもある。
つまり、本書を普通の「物語」として読もうとすると、そのとりとめのなさに当惑してしまうような内容なのだが、デ・キリコ自身は初版の書評掲載依頼状でこの小説を「1枚のタブローを見るように、この本が見られることを望んでいる」と記しているという。
確かに、この小説には通常考えられるような確かなあらすじはないのだが、「風景」があり「象徴的なエピソード」があり、「イメージ」がある。
所々に「夢の話?」と思えるような非現実的な場面も出てくるのだが、完全に浮世離れした場面というものはなく、スレスレの所で妙な現実感は失わない。
現実的とも非現実的とも言えぬまま、主人公のエブドメロスがいったい何者なのか、彼は一体何をしようとしているのか、まるで語られる事なくとりとめのない語りが続くのだ。
「現実か幻想か分からない」――というのは、デ・キリコの初期の絵画作品と共通した特徴でもある。と考えれば、やはり彼はこの小説を、自らの絵画作品のモチーフを散文という形に変換してみようという意図があったのかもしれない。
という事で確かにこの小説は、絵画を見るようにその各イメージを鑑賞していくというスタンスで見たほうが、理解できる作品なのかもしれない。
◆◆◆
もちろん、この小説の「とりとめのなさ」の中にデ・キリコの心的傾向を読み取るのがこの手の作品に求められる批評の役割のひとつだろう。
本書の「あとがき」では訳者の笹本孝が「いわばこの作品は、『技師の息子』の場合と同様、父親の回想を豊富な幻想のメタフォールとアレゴリーで綴ったキリコの自伝的小説ということになるのだ」(本書P.201より)と書かれているのだが、ぼくが見た所「父」に関する描写はこの作品の中でそれほど大きな位置を占めているだろうか?と疑問に思えなくもなかった(勿論、ざっと一読して見たぼくの感想なので、異論は認める/笑)。
というのも、デ・キリコの「父」を示す象徴(機関車、立ち上る煙、鉄道敷設員)や直接「父」が出てくるシーンというのは、全体の分量からしてみるとさほど多くないからだ。
確かに、ところどころに「父」の回想やその象徴的なものは出てくるし、何より本書の終わりのほうで主人公のエブドメロスが父の事を語りはじめ、そしてエブドメロスと共にラストを迎えるのも「父の眼をしている女」であった事は大きいだろうと思う。
だが、ぼくとしては全体にばら撒かれた象徴的な言葉やモチーフの中で、しばしば出てきて気になったのは「柱廊」であり「自分の部屋」であり、他にも「サロン」や「芸術」「画家」「兵士」「港」「湖」「船」「カフェ」「ブドウ酒」等といったもののほうであった。
特にギリシア神話や古代ギリシアを示唆するようなモチーフや比喩は作中に良く見られ、この物語も近代が舞台であるにも関わらず、そういった部分にデ・キリコの古典趣味や懐古趣味が見られるのは面白い特徴だと思われた。
改めて考えてみても、主人公の「エブドメロス」という名前からして、どこかギリシア的な、古風なネーミングだとさえ思えてくる。
そもそもデ・キリコの生涯を通じた絵画の特徴の一つが「ノスタルジー」であった事を考えてみても、この内容は当然のものだったのかもしれない。
デ・キリコは過去に執着する。
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「形而上絵画」という、当時最先端なスタイルを確立させておきながら、その後みずからルネッサンスに回帰すると言い、古いロマン主義的な絵画を描き、過去自分の描いた作品の模倣作のような絵を描いたデ・キリコ。
澁澤龍彦が「反近代主義の亡霊」と言ったように、彼の本質は古典絵画や自らの過去のイメージや死んだ父をいつまでも追い続け自らも過去に溶け込もうとする亡霊なのだろう。
だから、ぼくは本書の重要なモチーフは、「父」ではなくあくまで「過去」そのものなのではないかとも思うのだ。
思い出! 何という響きのよい深遠な語であろうか、何と言う啓示と情感に充ちた語であろうか。
◆◆◆
その他、つらつらのこの小説の特徴を幾つか。
ぼくはこの小説を読んで非常に「平坦だな」と思ったのだが、それはこの小説に「事件・事故」と言えるような騒ぎが何一つ起きないという点にある。
悠々とした街や自然の描写があり、エブドメロスは主体的な行動をあまり採らず、人々の喧噪もどこか遠い。
人々の喧騒が「遠い」と思ったのは、この小説に全く「会話」が見当たらないという特徴があったためでもあろう。
エブドメロスの一方的な「演説」や、エブドメロスの知人の一方的なおしゃべり等はあっても、何人かの人が集まって「会話を交わす」という事がなく、全てのセリフは「一方通行」なのである。
つまり、「キャッチボール」としての会話がいっさいなかったのだ。
だから、人々が喋りあっているシーンがあったとしても、そこに近づいて具体的に何を喋っているのかは分からず、仮にセリフがあったとしても、それはその中の代表の一人が延々と一人で喋っているだけなのである。
そこに、ぼくは本作に、人からの「遠さ」を感じてしまうのである。
面白いのは、このように会話のキャッチボールはなくとも、主人公のエブドメロスはとても良く喋るのである。
彼のセリフは、しばしば「エブドメロスの弟子」と称する人々に対する「演説」という形で長々と続けられるシーンが見られる。
デ・キリコはニーチェに影響を受けていると言われているが、このように「弟子たちに対して演説を行う主人公」という姿は、ぼくにはやはり『ツァラトゥストラはかく語り』の主人公・ツァラトゥストラの似姿を見てしまう。
ラスト近くの、エブドメロスが友人らに「!」を多く使って話しかけるシーンなどは、まさしくツァラトゥストラを思わせるセリフそのものであった。
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となると『エブドメロス』の、どこか全体的に筋が繋がらない、とりとめのない構成も『ツァラトゥストラはかく語り』に見られる、筋ごとにテーマがランダムに変わっていくために「とりとめがない」と思えるような(『ツァラトゥストラはかく語り』はその実アフォリズム形式を小説的な形にしたものなのだが…)その構成に似せて作られたものなのではないかとも思えてくる。
そう考えると、この『エブドメロス』というのは、『ツァラトゥストラ』と同じく(ツァラトゥストラもある意味ニーチェの分身としてニーチェ思想を伝えるキャラクターであった)自分の趣味嗜好や哲学を物語的な方法で開陳し、その上でデ・キリコの形而上絵画のような象徴的な表現も出来る形式として採用された作品だったのではないかとも思うのである。
◆◆◆
『エブドメロス』はデ・キリコの自伝的小説だと言われ、またこの小説の主人公・エブドメロスはデ・キリコの分身であると考えられる。
本作では作中のあちこちでエブドメロスの思索が見られるが、それらをデ・キリコ本人の考えであると捉えて彼の性格を想像してみると、その気難しさというのが際立って感じられる。
そう感じられる記述を、本書の中からいくつか挙げてみよう。
それに、エブドメロスは友人たちと、《生命とは何か》、《死とは何か》などという永遠の問題について議論をおっぱじめることを怖れた。《生命は地球以外の天体にも可能であろうか》、《輪廻とか霊魂の不滅、自然法則の不可視性、災害の到来を予告する亡霊の存在、犬に下意識のあること、フクロウがゆめをみること、蝉とかウズラのあたま、あるいはヒョウの斑状の皮膚のもつ謎めいた要素を本気で信じるか》、この種の議論をかれは怖れた。内心では本能的にそのような人間どもや事物のもつ謎めいた側面に興味をそそられてはいたのだが。だが、エブドメロスが議論する相手は、そうしたたぐいの人間とは全く無縁な、エブドメロスにきまって不信感だけを起こさせる連中ばかりだった。エブドメロスは、こうした連中の自尊心とか怨恨そしてまたかれらのヒステリー現象を怖れた。かれは友人たちの心にコンプレックスの感情をめざめさせたくなかった。だが一方で、かれは友人たちの賛美をも怖れた。そいつはすごい、大したものだ、全体未聞のことだ、というような一切が、エブドメロスには極めて低俗な喜びしか感じさせぬものだたし、しまいにはかれを焦だたせるのだ。かれの唯一の幸せは、いかなる方法であろうとも人からかかずらわれぬことだった。人なみの目立たぬ服装をして、誰からも気づかれず、たとえそれが寛大な視線であろうとも、一切の他人の視線の矢を背や横はらに全く感じずに生きること。あるいは別の言い方をすれば、まさしく彼はひとからかかずらわれることを希んでいた、とも言えよう。だがそれは今言った方法とは全くちがう方法によってである。即ち栄光の良き面をうけとり栄光に充ち足りて、しかも栄光のわずらわしさに陥らぬこと。要するに、あのシバリス人の流儀なのだ。
エブドメロスと議論をする連中は、彼に「きまって不信感だけを起こさせる連中ばかり」であり、そういった友人たちからの「賛美をも怖れた」という。
こういう記述を見ると、どこかデ・キリコがシュルレアリストらと意見を違え、決別してしまった事を想起させられてしまう。
本作はシュルレアリストらとの決別を表明した3年後に発表された小説であった事も考えると、そういった友人らとの確執が、デ・キリコの心の中に引っかかっていた時期に書かれたのではないかとも思えてくる。
あげく「人なみの目立たぬ服装をして、誰からも気づかれず、たとえそれが寛大な視線であろうとも、一切の他人の視線の矢を背や横はらに全く感じずに生きること」を望んでいた、などと言うのである。
考え方にこのような傾向のある人というのは、あまり「人づきあいが得意」といったタイプはいないのではないか、とも思ってしまう。
実をいうと、かれは自分がパノラマというものに嫌悪を感じること、自分が愛するのは部屋だけであり、それもカーテンをおろしドアを閉め切り、ひとりでじっと閉じこもるのに恰好な部屋だけであり、かれには部屋の隅とか低い天上の作り以上にまさるもののないことを言ってやりたかった。だが、言っても理解されぬことだし、とくに狂人とまちがえられ、土地の医学的権威などを教えられたりしては困るので、あえて言いかけた言葉をのみこんだ。
本作にはしばしばエブドメロスが自室でいろいろと思索を巡らせるシーンが出てくるのだが、それは上の記述を見ても分かる通り、エブドメロスが部屋を愛しているからに他ならないだろう。
デ・キリコの絵画作品である『エブドメロスの帰還』に描かれているのも、エブドメロスが船を漕いで帰還するのは「自分の部屋の中」であった。
こういう所にもデ・キリコの、どちらかといえば内向的な性格が見てとれるようではないか。
また、デ・キリコは毒舌家としても知られており、その片鱗は本書の主人公・エブドメロスの考え方にも見られるのではないかと思える。
そのようなあからさまな毒舌といったものはさほど本作では目立たないが、時折り例えば以下の様な記述が出てきたりする。
不安気でいらだたし気な視線の連中のなかにいて、イロニーと真の才能を怖れ憎悪する無力でうらみがましいインテリの間にいて、しかもかれらは小脇に聖遺物でも捧げる如く贔負の詩人の最新本をかかえてカフェを徘徊し、その本ときたらこれもまた宿命的にかれらと同様無力で便秘性のような不毛さで、実を言えばこんななかでしか連中は完全に己れを知ることが出来ず、たまたま運に恵まれたり情況のちょっとした結びつきの具合によって日の目をみ、かくして栄光の甘い幻想を与えられたりするようなものなのだが、そんなインテリたちのなかにいて、おまけに喫茶店では、テーブルのうえの自分のクリームコーヒーのすぐそばに、限定本で出版され和紙を使った各ページの中間を二、三行、とりにたらぬ錬金術師のたわごとともっともらしい無駄口で汚した、いわば崇拝のまとともいうべき本をおくような連中のなかにいて、また誰の眼にも明々白々なある種の外的表示のため、エブドメロスにもすぐにそれと認識できる連中のなかにいて、芸術とか文学とかの厄介な製作者、疑わしげな視線をし、口元が率直にほころびることの決してない男たちのなかにいて、エブドメロスは、そこに何かしらしばられた関係というものを感じたのだ。
この長々しいセンテンスの中に、いわば「似非インテリ」的な存在に対する随分と軽蔑したような心情が伺えるのが分かる。
これは必ずしも著者自身の考え方だとは言えない……と解釈するのは難しいだろう。
著者の考えでもなければ、自伝的小説の主人公の考えに、これほどねちっこく嫌味な言葉を並べ立てる事はないだろう。
こういう内向的で気難しいデ・キリコの心的傾向を考えてみると、やはり本書の本質は「読者と作者との対話」にあるのではなく、あくまで「著者自身のための著者の内省」を試みたものなのだろうと思うのである。
そういう所が、本作の「会話の無さ」「キャッチボールとしての対話の無さ」という特徴にも現れているのではないだろうか。
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デ・キリコは絵画でも『エブドメロス』の名を冠した作品をいくつか残している。
代表的なものは『エブドメロス』が書かれてから40年後の1969年に発表された『エブドメロスの帰還』と題されたタブローだろう。
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小説『エブドメロス』と同様に様々な象徴がばら撒かれて謎めいた作品である。が、これはデ・キリコが過去に書いた様々な作品のモチーフが一挙に集められたスター・システムのような作品なのである。
例えば、右下の茶色いギザギザのプールの中にいる裸の男と、その男に話しかけるスーツの男性は1938年の『謎めいた水浴び』のモチーフが使われてる。
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右上の建物の側や左側の水場にかかる橋を飾る、長く伸びた渦巻状のモチーフは、デ・キリコがしばしば使っているもので、左側の橋の両側を飾るのは恐らく1969年の『橋の上の戦い』であろう。
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そして、その橋の下の水場でボートを漕ぐ男のモチーフもしばしばデ・キリコの作品に現れる。代表的なものが1968年の『ユリシーズの帰還』であろう。
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これはほとんど同じ内容の作品が1973年にも『オデュッセウスの帰還』のタイトルで発表されている。
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また、そのままタイトルに「エブドメロス」の名が冠された同モチーフの作品もデ・キリコの作品にはしばしば見られるのである。という事は、やはり『エブドメロスの帰還』も『オデュッセウスの帰還』と無関係ではなく、同じコンセプトを持った作品なのだろう。
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「ユリシーズ」は「オデュッセウス」のラテン語読みだから、この「部屋の中でボートを漕ぐ男」のモチーフはほぼ同内容の作品群だと思って間違いない。
「オデュッセウスの帰還」というモチーフは『オデュッセイア』から採られていて、美術史の中ではピントゥリッキオの作品が有名である。
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オデュッセウスはトロイア戦争の英雄であり、有名な「トロイの木馬」を考案した知将としても知られる人物であった。
そのオデュッセウスはトロイア戦争に従軍した後、帰国の途の半ばの航路で暴風にあったために航路を外れ、そのために国に帰るまで様々な試練を経なければならなかった。
はピントゥリッキオの『オデュッセウスの帰還』(1509年ごろ)はそのオデュッセウスが妻・ペーネロペーの元に帰って来る話を描いたものである。
デ・キリコの作品の場合、やはりボートを漕いで帰還しているオデュッセウスがエブドメロス(=デ・キリコ)と同一視されているという事なのだろう。
つまり『エブドメロスの帰還』という作品は、オデュッセウスが帰路で様々な遍歴を経て妻の元へたどり着いたのと同じように、この絵の中で自分の様々な作品遍歴を描いているのかもしれない。だからこそのスター・システムのように、この作品にはデ・キリコの過去の様々な作品のモチーフが寄せ集められているのだろう。
『エブドメロスの帰還』に集合したデ・キリコの過去作のモチーフのそれぞれは皆、過去の彼の様々な内面の表れの軌跡であり、そういった内面の旅を経て彼が落ち着くのは彼自身の愛する「部屋の中」だったのかもしれない
男がボートを漕ぐと、ボートは男の背中の方向に向かって走っていく。このモチーフは、ぼくには非常に意味深に思えるのである。
『エブドメロスの帰還』『オデュッセウスの帰還』に書かれる「ボートを漕ぐ男=エブドメロス=デ・キリコ」の姿は、そのまま「男の背後=過去」へ遡っていく「反近代主義の亡霊」の姿であったか。
デ・キリコは過去に執着する。
彼の帰還しようとするその先は、常に安寧の「過去」だったのかもしれない。