【読書メモ】住まうこと『生きていること』#3
今回の記事では、「住まうこと」と「建てること」の違いを整理して、「建てるということ」を捉え直そうという内容である。
まず、インゴルドは
・建てること=建てられた形に先立つデザインの結果的な表れである。
・住まうこと=生きていることと同じく進行中であり、単に建てられた構造物を占拠するのではない。生きた世界の流れに浸ることである。それなしでは、建てることも占拠することもできない。
建てることは住まうための手段ではない。住まうことは建てることが具現する目的ではない。建てることは住まうことで、住まうことができて初めて建てることができる。
いきなり何を言っているんだかという内容であるが、、丁寧にみていきましょう。
まず、「建てること」に対する解釈について2つの視点があるとしている。
【建てる視点】:素材に対して何かを建てる
<建てる=つくる>
生産のプロセスを最終生産物によって、消費されるものとみなす。進行しつつ、やりくりしていく労働の即興的な創造性ではなく、事前の心の中のデザインに重きを置く。つくることに先立ち、作り手が物質世界を超えて、それを支配する意図を持つ。
【住まう視点】:想像上でも地上上でも人が築くかたち(つくるもの)は、人間が周囲と実際に切り結ぶ特定の文脈において、そこで流れる活動の流動の中で生じること。素材と共に仕事をするプロセスとして、また単に、仮想物を実物へと移し替えるのではなく、形を生成するプロセスとして建てることを捉え直す。そのために、建てること(つくること)を「編む」こととしてとして考える
<住まう=編む>
生産物よりも生成プロセスに重きを置き、目的→手段のような、他動詞の関係ではなく、自動詞的な関係で環境との関わりへ、注意を払うことから活動を定義する。編み手は素材の世界に包まれている。そこから引き出し、紡ぐことで仕事を進める
編み手:前に導き出すものpro-ducerという文字通り生産者
人間もそれ以外の動物も実践と経験を通して身につけた「注意力」と「感受性」を動員して周囲の中で振る舞っているのであると。
注意力と感受性というワードが出てきたが、
周囲の環境をどのように知覚しているのか?
「アフォーダンス理論」で有名な認知心理学者ギブソンは、環境の中の事物を知覚するのはいかに可能か?を問いにした。ギブソンにとって人間は動物でもあり、生きることを通して発見されていく世界を環境として考えた。そして「知覚の根本は「動き」に関するものだ。」と考えた。知覚は心の中で起こるものではなく、環境の中を動き回ることで達成される。事物と関わることで人間だろうと人間ではなかろうと、巧みな実践家は事物を知るようになる。
インゴルドによると、ギブソンの理論は、世界を固定化するという犠牲をはらうことで、観察者が動き始め、知覚者に生を取り戻している。動き回る観察者はかつて生に満ちた地球上を動き回るたった一人の生存者のようだし、地球も地殻変動で硬化してしまったようだと指摘している。そこでは位置を占めることはできても住まうことはできないという。
「動き」をどう捉えるか?
インゴルドは硬い地面の上を「動く」のではなく、モノの生成プロセスそのものと一体となる流動として捉える。定まったものを別のところへ運ぶのではなく、不断の生成変化を導き出すプロセスとして理解し直す必要があるのではないかという。
また、この「動き」を理解するためにメルロ=ポンティを引用している。生きている体は根本、世界の組織へ編み込まれており、世界の知覚は、世界による、世界自身の知覚でしかない。感受性を持たない世界(ギブソンの描く環境) において、感受性を保つことはできない。住み手に対して、背を向け、外に向けた表面だけが探索可能な世界である。また、感受性をもつとは、世界に対して、開かれ包まれ、己の内部の世界を満たす光と響きに共鳴させることである。光や音、感覚に侵され、知覚者であると同時に、生産者である感受性を持つ体は、その連続変化に寄与すると共に、世界の展開の道筋を辿る。
住まうこととは、生の道筋に沿って漕ぎ出す動きである。
知覚者=生産者は歩みを進める散歩者であり、生産の様式とは開かれていく工程であり、辿られる道筋である。道筋に沿って生は生きられ、わざが磨かれ、観察がなされ、理解が育つ。歩くことが生き物が世界に生息する根本的な様式だである。
よって、あらゆる生き物は、自らの動きの線として、あるいは現実的には動きの線の束として想起されなければならない。
いよいよ次回は「線」についてである。
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