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過適切にもほどがある! おっさんだっていいじゃない…か?
「昭和サイアク!」「昭和には悪しかない」
ネットで『不適切にもほどがある!』の感想を読んでいると、昭和を全否定する人がチラホラ見受けられる。
私も女の端くれとして「女三界に家無し」なんて世の中じゃなくなって良かったと思っている。
結婚は? お子さんは?って言われることが少なくなってきているのは、ありがたいと思う。
確かにあの時代は、多数派に入れないと、とても大変だった。
元気なおっさんたちが全てを握っていて、そうでない人間…女性や若者、性的少数派、病人や障碍者…は我慢を強いられていた。
だから、素人の手作り食品は気持ち悪くて食べられないと言える今の世の中は素晴らしいと思う。
だけど、じゃあ令和はサイコーで善しかないのだろうか?
『不適切』第2話では部下に仕事を振って定時で帰るより、一人で残業して仕事を仕上げたい渚ちゃんが、第3話ではコンプラ対応でわけが分からなくなって「稲庭うどんがしこしこして美味しい」にまで不適切だと反応してしまうプロデューサー栗田が、誰からも適切であることを押し付けられたり、認められようとしたりして破綻してしまう姿が描かれている。
『不適切』第3話で、露出度の多い服を着た女性が「アンタのために…じゃない」と歌っているのを聞いて、あなたは見せるつもりはないかもしれないが私は見たくないとつぶやきが漏れてしまった。
昭和中期くらいまであふれていたステテコ姿のおっさんも、別に誰かに見せるつもりであんな格好をしていたわけではないだろう。自分が着たいから着ていただけだろう。
だけど、セクハラとかなんとか言って彼らの着たい服(服なのか。アレ?)を封じ込めたのは誰だったのだろう。
だったら、彼女たちの着たい服も封じ込められることを甘受しなければならないのではないかと思う。
栗田が「それもハラスメント」と歌っていたのはお互い様と言いたかったのではないだろうか。
かつて押さえつけられていた力なき者たちが、力を持つ者たちの気ままな行動に対して「それは不適切だ」声をあげられるようになった。
繰り返すが、それは本当に良いことだ。
だけどそれぞれの人が自分の「適切」を求めすぎて、他者の「適切」を蔑ろにしているのではないかと感じる。
『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか』の誠は過適切な環境に対抗するのにギブアップして、他人の意見を取り入れ「適切」にアップデートしようと図った。
『不適切』の市郎も「未来で暮らしたせいで心にコンプライアンスとやらが芽生えたのか?」(フェミニスト・サカエさんの影響もあると思われる)と言うように、アップデートし始めている。
であるなら、おっさんに適切を求める人たちもまた、おっさんの適切を活用できるようなアップデートを目指しても良いのではないだろうか。
『不適切』のテレビ局が市郎をカウンセラーとして取り込んだのは、そういうことなんじゃないかと思う。
それで市郎が誰かを傷つけたら、市郎に意見すればいい。
そうやって、不適切と過適切の間を行き来して、適切な落としどころにたどり着ける未来を信じて、私自身もアップデートに努めたいと思う。
ママ友や同僚の手作り、美味しいじゃん。
食べたくないなら食べなくていいけど、作りたい人を否定しなくても良くない? 食べたい人だってけっこういると思うよ。