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なぜ哲学をする?グダ語り物語る 推敲したくねえ

注:読み返したら、本を読む読まないの話題(中盤辺りの)それは本が難しいからか?ぐらいの部分から関係ないことを連想してmediumという本の話をしてしまい、ついには本を読む読まないの話を終わらせることを完全に忘れていた。申し訳ない でも推敲はしないもんね!もう寝るもん まあでも簡単に説明しておくと、知的好奇心が無前提に強いわけではなかったので、様々な複雑な事実があるなぁというノリで読書をするのは、まあ楽しくないとは言わないものの俺のノリではない。俺はこう、なんか、抜本的に価値観の組み換えが起きてしまうような本が好きである、みたいな話をしようと思っていた 以上



完全な概念を求めてしまう。
こうなったのは、こうなってしまったのは?思えばいつからだっただろう。


推敲なしでグダグダ喋りたい(打込みたい)と思う。手の動くままに、思いつくままに。一応今回話そうとしているテーマはあるものの、別にそこに行き着かなかったとして俺は特に困らない。俺はグダグダしゃべるのが好きだ。ちゃんと話すことを決めて、ソレについて話す、という方向性の会話がどうも好きになれない。もちろん相対的なものであって、微視的に見れば誰しもある程度話題を固定して話すし、或いは話さないし、俺と俺以外に間に明確な境界線はない。明確な境界線はない?あのさぁ、当たり前なんだよ。考えた結果こういうことを言い出す奴多いけどさぁ、定義する前から定義があるわけ無いだろ。こういう事言うやつは定義する前から定義があるわけないで考える前から全て一蹴できると思っている。あとなんか考察動画とかに入ってるさあ、※主観を含みます って注意書き。あれ本当に嫌いなんだ。そりゃあ含むだろうよ。こう意味として分析した時にクソ虚無でしかないのに、社会的に怒られない為にさも意味があるように設置されている決まり文句みたいなの嫌いなんだよなマジで。

まあなんであれ、定義する前から定量的で客観的で形式的な区分の明確な定義がなかろうと、感覚の上で間違いなく感じる区分なわけだ(そう、結局こういう話をし始めるのである。形式的にしようとも、恣意的に形式を構成するに過ぎない)ここで形式化し、話を明確にするのは効率化https://organofsaul.hatenablog.com/entry/2019/09/28/223551←(効率化の説明)を孕んでしまう。もちろん形式的にすることもあるが、それは労力がかかるし、第一俺は記号の操作をしたいわけではない。いや、もちろんモデル化してそこから意味論的な良さを抽出することも可能ではあるだろうが、一般に可能では別にないだろう。少なくとも俺は形式化して”俺が考えている問題それ自体”に触れているなと思ったことは殆どない。自然状態で別に形式化しないのに、形式化しようと思う強い動機づけが俺の中に特に存在しないのだ。まあ行き詰まったら、することもあるかもしれない。てか何にしても学問、最近世論が定量的なものに偏ってないですか?文学部廃止とか言いやがるし。

ちゃんと話すのが何故難しいのか。物語だとかフィクションだとか幾らでも言い立てられるが、もうそんなことはどうでもいい。今となっては当時感銘を受けた

http://circlecrash.hatenablog.com/entry/2017/12/07/235910

これも反証可能性を満たさない最強の理論のうち冷笑的なものを強化する類のもの程度にしか見えない。結局の所人間は物語る存在に過ぎないと物語っているに過ぎない。現前性パワーでその辺のことが頭にない人間からしたら本当にフィクションなど存在ないとか、まあそういう感じで色々反論も出来る。それが愚かだとか言い出したらとうとう同じ穴の狢だろう。はい?はい。結局反証可能性を満たさない言明の中で何を選ぶかが思想であり、個人に委ねられている。いいか、反論できない最強の理論=排他的に最強じゃねえからな。

んで、物語る。なぜ決まった話を継続できないのか。何故って俺は常に焦燥感があるのだ。もう最近は娯楽すらあんまり楽しめない。まあ今日はもう遊ぶ!と決めた日ならまだしも、(何かしら特別なイベントがあったり友人と集まったりなど)もう本当にウズウズしている、何をすれば良いのかは分からないが、このままではいけない事ことだけがひたすらリアルに俺を劈く。とりあえずこのまま死ぬのだけは勘弁なんだ。決まった話に専念するということは、即ちそれ以外の話題に専念しないということである。それが”めっちゃ求めているもの”ならまだしも、まあ簡単にそんなものは見つからないからこそこうなっている、クソ楽しいなら気晴らしとして一時的に専念してもいいと思えるものの、やはり楽しいことは楽しいことでしかない。楽しいことを一切断ち切ると多分潰れるので断ち切りはしないが、それのみをして生きていたいわけではない。では何がしたいのか!そもそもしたいことに対応する概念、正解はあるのか!脳に電極を刺して、”正解感”が得られればそれで良いのか!分からない。何もわからない。もしこの世が曖昧であり、明確な客観的事実なるものがない場合、その証明は曖昧にしかできないのだろうなあ。そうなのだろうか、非自明かもしれない。でもダルいからこれ以上は考えない。俺は拡散的に視点のみ提供し続けたい。後は頼むよ

俺の家にはデカい本棚がある。(急だが)いや、果たしてこれはデカいのだろうか。

大きさとは(哲学)←浅薄野郎がよ

これも先程と同じく相対的な概念でしかなく、社会的実在性の近似https://twitter.com/egzctiiion/status/1329331105674063872?s=20(社会的実在性の説明)

を取る試みにしかならないだろう。本当の大きさなるものを求めても意味がない。あ、これはイデア論の否定ではないよ。イデア論が真だったとして、流石に”俺が第六水曜日に、自らの背中が月面であることを願いながらダイブする”に対応するイデアはないだろう。何の話?まあ、そういう感じの話。

話を戻して、デカい(とりあえずデカいとする)本棚があり、ある程度本がぎっしりと詰まっている。なるほど本が好きなんですね、いいえ?全然好きじゃないです。

そう、そうなのだ。俺は無前提に読書好きなわけではない。極稀に数ページ読むだけでもう、読もうという自意識なしに読まずにはいられない本がある。そういった本と出会いたい。そういう意味で読書は好きだが、広範に勉強(読書)が好きなわけではない。と最近になって自覚(自覚というと、”自分のほんとうの考え方”なるものが先に存在してそれに至ったというモデルを素朴に前提としているようでキモいが、まあいい)した。俺は知的好奇心が強いと幼少期によく言われてきたが、それは適切ではない。最近はそう感じる。知的好奇心が強いと言われてきた理由としては、月が浮いているのはなぜ、生きているのはなぜ、あの色はあなたにとってもあの色なのか……などのまあ哲学好きお決まりのパターンを踏んできたからであろう。お決まりでないものとしては、首と胴体が別れたらどうなるのか。と言う問題だった。どちらに意識が行くのか。遠隔で身体を動かせたりするのか、まあこういう方面の話も無限にできてしまう気がするので話を戻そう。時を戻そう(ぺこぱ)

まあとりあえずそういった自意識を抱えて生きてきた。それなら本を読むのも好きだろう。現代において本は知性の象徴のような扱いをなされている。ならば私も本が好きなはずだ(バカ)俺はとある本がクソ面白かったことを皮切りに、主にその本に近い分野の、まあ近くない分野でも読みたい本をバイト代でひたすらに買い漁った。結果ほとんど読んでいない。多分十万ぐらい分位は買ったが、どれも殆ど、少しだけ読んでもう読む気にはなれなかった。それは書いてあることが分からないからか?もちろんそういう本もある。特にアンチ・オイディプスは1ページ目から頭を抱えた。不条理な文章(ワードサラダ)が好きなのでそういう方面として解釈すれば逆に楽しめるぐらいに意味不明であった。(余談だが、逆にワードサラダとして評価すると脈略がありすぎてあんまり面白くないなと思った。そして小笠原鳥類も面白くなかった。俺が一番面白いと思う不条理な詩を書く作者は今の所俺。)あと物語もあんまり読めなくなってしまった。悲しいかな。概観を知りたいみたいな気持ちになってしまう。意味だけ抽出して、なんとか”俺のやりたいこと”がそこから関連付けられてウオオオオとなったりしないか。いや、というかして欲しい。しかし私はこの感性の欠落も非常に悲しいのだ。

ミステリ五冠 medium 読みました!

なるほど確かに面白いが、もう駄目なのだ。面白い話ではダメなのかもしれない。なんというか、あらすじ形式で聞いて読まなくても別に良かったかなと言う感じだった。オチはそれほど予想外のものではなかったし、トリックは具体的な状況だな、と言う感じだし(本当に酷い口ぶりだと思う)……翡翠ちゃん、残念ながら俺は日常の謎というジャンルを嗜める豊穣な感性を失っているみたいだ……それは焦燥感からくる失い、なのか、元々無いのか。考えてみると焦燥感、或いは寿命さえなければもっと楽しく読めてたと思うから失いのほうが適切か?いや、理論上感覚主体が任意の対象に対して感動できないということはない気もする。元々無いとかそんな事ありえるのか?いや、そうじゃなくてこの今回の現実において現実的に、蓋然性の主張として……否、単にその二分以外にもなんか分割できそうだが……ちなみに必然性の主張ってのは100%そうであると言う主張で、蓋然性の主張というのは確率的に確からしいという主張。世間で行われる主張はほぼ蓋然性の主張である。自他共、主張が蓋然性のものなのか必然性(を主張するもの)なのか区別する癖がつくと、まあ俺に近しいおそらく奇特な方々にとっては役に立つと思う。いやどうでもいい!ああそうだ!でも星の王子様は感動した!アレはちゃんと読むべきだと思う。いや本当に、どうすれば良いのか????

本当に私も予想だにしない方向に話が進んでいくな、と感じる。そこで本題。そして良いこと思いついた!俺は今日、”哲学”の権威主義的なノリを批判しようと思って、メモ書きをしていたのだが、もうこれを作品の体にするのをやめる!何故か。ダルいからだ。そもそもこのノートに既に作品の体など無いわけだしいいだろう。 では開始する。

哲学研究者と実存哲学者という区分

俺は明らかに後者だ。面白い話がしたいわけではなく、俺の現実に対する強い実存的意味が投下する文章に強く影響を与える。構文論で閉じた話を俺は出来ない、もしくは基本興味がない。上でも述べたが一般に構文的にモデル化して意味を得るという手法はいい方法でありがちだが、俺のはどうも上手く行かないっぽい、そういう感じじゃ無さそうなのである。
俺は勉強好きのエリートではない。お利口さんが集まってなす公的な話に貢献したいわけではない。悪いがその辺のノリとは切断している。俺は俺のしたい話に引き付けた形でしか哲学したくない。”一瞬のまじめな”方々には、そのスタンスは非常に不快なものだろう。まあだからといって意見を改める気はないが。

とりあえず巨人の肩に乗れ、とは言うが、じゃあいつまで乗り続ければ良いんだ?誰かが考えている古典に敬意を払えとしか連呼しない野郎は、実際お前がユニークじゃなかった経験則からソレを言ってるだけじゃないのか?お前の事情なんて知らねえよ。俺まで潰すな。俺が気になることを考えたいだけだ。哲学の進展?知るか。別に何処で切り上げるかは俺が決める。確かに”どこかに俺に対応する巨人”がいるのかもしれないが、すべての本を読むことは出来ない。どこで損切りするかは俺が決める。哲学史問答無用肯定お兄さん、もうやめてくださいね!!!

実を言うと飲茶という人間の哲学史をちゃんと読んだぐらいで、あとはあまり通読は出来ていないと感じる。(二次文献は通読してるのも全然あるが、原典はてんでダメ)自分で考えている。もうおわかりだと思うが、ここで飲茶は浅いだとか、そういう批判は俺には届かない。俺にとっては大変価値があった。素朴に”正当な哲学”なるものが世界観の内に存在する奴らが羨ましい。

おう形式的であれば良いのか?俺は、お前らに示すために話してるわけじゃねえんだ。
俺の最近のテーマは、無限月読の是非、などだろうか。ちなみに今の所俺は肯定より。まあ明確にテーマがあるわけではないが。


これのメモ書きを作品の体にする予定だった。ダルいのでこうした、もうこういうブログ記事全部こういうノリじゃダメなのだろうか。これでいいなら本当に楽である。書きたいことを、アイデアを書くのは楽しいが、微調整は本当につまらない。真に驚くべきことに、私はこのノリを無限に続けられる気がするが、この余白はそれを続けるには広すぎる。






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