徳江、noteを始めます。
1976年、僕は山梨県の山の中で仲間とともに豚の放牧に挑戦した。
これは、母豚から飼育までの一貫した取り組みで
日本では初めてのことだった。
今でいう”アニマルウェルフェア”の走り。
イギリスではとっくに出版され、動物をまるで機械のように扱う
畜産を告発した”アニマルマシーン(1964年)”という本が
日本で翻訳されたのは1979年のことだった。
さらに有機農業を広げようなどと考えたのが運のつき。
1978年「大地を守る会」に参画。 1988年「らでぃっしゅぼーや」創設。
起業に次ぐ起業の人生だった。
1999年頃、らでぃっしゅぼーや最初の折込チラシ
気が付けば、1951年公害の原点、
熊本県の水俣市に生まれてからちょうど71年。
1956年の水俣病公式発見から66年。
その原因についての政府統一見解が出た1968年から
54年という時が過ぎた。
ぼくは水俣病の加害企業“チッソ”の経営層の家に生まれ、
最も多感な頃、加害者側の当事者としてその問題の洗礼を受け
時代の風を受けてきた。
当時、父はチッソ株式会社の技術部長だった
チッソは、日本で初めて化学肥料を作り出した会社。
そして当時は有機水銀、有機塩素系の危険な農薬が
どんどん使われ始めていた時代。
海がチッソの廃液に含まれた水銀で汚染され、
禁漁となり仕事を失った水俣の漁師は
農薬や化学肥料を使わない甘夏づくりを始めた。
ぼくの「大地を守る会」での最初の仕事は
有機栽培された水俣の甘夏を東京で売ることから始まった。
公害と環境問題の原点である水俣は
こうして、日本の有機農業の原点ともなった。
有機農業に始まったぼくの46年間は、
今でいう“ソーシャルビジネス(社会問題解決型事業)”構築の連続だった。
批判や告発だけでは世の中は変わらない。
代案提示や経済的に自立する“食える市民運動”が必要と思った。
ビジネスで世の中を変えてみせると思った。
人は誤りを犯すし、企業は利益を優先することによって
社会的問題を引き起こす。
しかしそのリスクはゼロにはできない。いかに低減するかしかない?
低減するための最初のステップは情報公開と説明責任から始まる。
利害から離れた第三者の“目”をあえて
企業、組織、ひいては社会の中に置くことだ。
政治の世界でも一時、マニフェストの必要性が叫ばれ
情報公開と説明責任が問われたが、前政権ですべて台無しになっている。
情報を隠す、説明しない、改ざんするのが当たり前。
官僚組織も矜持を失っている。
今日本の政治と行政は最悪の状態。
明日、何が起こっても不思議ではない。誰も統制できない状況にある。
そんなわけでこの半世紀、ぼくはその時々の中で
今何が問題で、解決すべき社会的課題は何か、
チャレンジすべきテーマは何かを考え、気が付いてみると
50以上の企業・団体の設立をしてきていることになるのだが・・・。
今、SDGsが叫ばれる中、持続可能な開発は本当に可能なのか?
ソーシャルビジネスの本質とは何か?
脱成長ということは在り得るのか?
今年、社会に出て半世紀過が過ぎ、71歳になった。
まあ忙しかったけれど、まだまだ好奇心が衰えずで困ったものなのだが、
そろそろこの50年の経験と未来に対する考えを伝えるのも
自分の仕事ではないかと思えるようになった。
このNoteでこの50年の公害や環境問題の歴史を語り、
そこからどんなソーシャルビジネスが生まれ、
どんな取り組みがあったのかを自分の経験と取り組みから伝えてみたい。
そして今の変化の兆しから近未来を予測し、
特に日本農業の在り方に焦点をあて、次の時代の可能性を語ってみたい。