【思い出】KOBEの記憶に雪が降る⑤
「お、お客様!どうかなさいましたか!?」
状況がつかめないが、確実なのは“目の前にいるお客様が泣いている”ことだ。もしかしたらぼくの言葉選びが間違っていたのか。軽く混乱していると、カウンターのお客様は左手で目を抑えながら、右腕をぼくのほうに向け、手のひらを広げて静止するようなしぐさを見せた。
「いやいやいや… ええの。ごめんごめん。実はな…」
そう言うと、お客様はぽつりぽつり話し始めた。
結論から言うと、このお客様はあの阪神大震災で被災された方だったのだ。
早朝に近畿圏を揺るがしたマグニチュード7.3の大地震は、被害が甚大だったのもあり近代都市においての災害として世界中に衝撃を与えたと言われている。
当時、お客様は神戸市内に住んでいたのだとか。幸い家族は無事だったものの、自宅は半壊。同僚や学生時代の同級生、友人を数名亡くし、更に会社があった建物も倒壊し、仕事まで失ってしまったのだという。
泣き叫ぶ声、サイレンの音、怒号、悲鳴、ほこりをまとう空気…。被災した方の「生かされた」経験談というのは、凄惨の中に温度を感じるものだ。
この時の時間の流れがすうーっと冷たく引き締まったのは、きっと吹雪や鳴り風のせいではないだろう。ぼくはお客様の話に完全に引き込まれていたのだ。
それから3年。震災後は家族を守るために必死で頑張った甲斐あって、身辺や仕事についてもようやく一区切りがついたんだとか。そこで、お子さまがと奥さまを連れて数年ぶりに家族旅行に来たのだという。
東北や、このホテルは以前にもいらっしゃったことがあるのですか、と聞くと、独身の頃は毎年、当時の同僚と来ていたのだとか。
ただ、
「その同僚ってのが、震災で亡くなってしもうたんよ」。
…そういうことだったのか。
あれから一区切りがついたところで、思い出の場所に家族を連れてきたんだ。子どもたちも冬休みだもんなあ。
チェックインしてからはナイターまでさんざんスキーを楽しみ、食事して温泉に入ったら奥さまも子どもたちも一瞬で眠ってしまったのだという。
「家族の寝顔って安心するのよ。安心したら、全く寝れなくなってしまって、ここ来たの」。
「もう帰るところだったのに、兄さんには悪いことしたなあ、全くしゃべらんから気持ち悪かったやろ」
いえいえ!とんでもないです!あの、もう一杯いかがですか、サービスしますんで!
…ただただ、嬉しかった。
一言では言い表せない様々な思いが交差して、いまこの時間が創られたのだ。それがもしかしたら自分の作ったカクテルだったとすれば、こんなに嬉しいことはない。
その嬉しさと安堵がごちゃ混ぜになって、すっかり調子に乗ってしまったぼくは、聞かれてもいない身の上話を率先してしゃべってしまう始末。
生まれたところは三陸沿岸で、高田松原っていう砂浜海岸があって、ぼくは高田高校という地元の学校を卒業して。あっ高田高校って昭和に女子バレー部が春高で全国制覇したこともあって、野球部も一度甲子園に出たんですよ、当時は53年ぶりの雨天コールド敗退で話題になって、あの阿久悠さんが詩を書き残して下さったんですよ。その時の相手が滝川第二で…あ、兵庫県代表じゃないですか!
とか。とにかく数分前までの膠着した時間が嘘のように、穏やかで温かい時間がそこには確かに流れていたのだ。
「いやいや…今夜は本当にありがとう。明日も泊まるから、夜になったらまた来るわ」。
そう言って、カウンターのお客様は笑顔で店を後にした。
閉店業務をしながら、ぼくはずっとドキドキしていて、ニヤニヤが止まらなかった。
無理もない。
18歳で入社してから、ホテルの業務をただこなしているだけ、という思いがずっとあって、このまま続けてもいいのだろうか、だけどその後の仕事を探すのも面倒だよな…という葛藤がずっとあって、今一つ仕事に集中できていなかった時期は確かにあった。つまりホテルに入社してからずっと、巷で表現される「五月病」が三年間続いていたようなものだ。
もしかしたら、自分の作った一杯のカクテルが、お客様の心だけではなく、自分の胸にずっと閉じていたものを開かせたのかもしれない。
これがサービスというものなのか。
…明日の夜も来るって言っていたよな。
明日は、どんなカクテルを作ろうか。
明日は、どんな話をしようかな。
外の吹雪は止み、風も穏やかになったものの、大粒の雪はゲレンデのスポットライトに照らされながら、深々と降り続いていた。
そして、次の日。
つづく。