デカルトから学ぶ「才能はたっぷり使い切ろう」
6年前に読んだ本です。帯の「分割」「解消」に惹かれてじわじわ味わいました。装丁が美しく、手に取るたびに高揚したものです。
著者の悩み
全21章から構成されていて、どこから読んでもいいそうです。おもしろそうなところからピックアップして読み進めました。
特に印象に残るのが第10章の
デカルトはたっぷりと「自分の能力を使い切る」
ここでは「高邁」という心のあり方について考えます。そもそも「高邁」とは、
日本語の「高邁」に相当するフランス語générogiteのニュアンスを正確につかむのが難しくて著者は悩みます。
直訳すると「気前のよい、出し惜しみしない(という意味)」どのように訳せば伝わるのだろうかと。
当時、テニスの伊達公子選手の活躍を伝えるフランスの新聞に「伊達選手はgénéreux(générogiteの形容詞)な戦い方をした」と書かれていた。
伊達選手は「気前のよい戦い方をした?フェアプレーを賞賛された?」……どこか違う。
ある時、著者は雑誌の記事から気づきを得ます。
この「たっぷり」が気前よく、出し惜しみしないということなのだ。能力を出し惜しみしない。
よって、フランスの新聞は伊達選手が能力を使い切る姿を「généreux」と表現したのだと解釈した。
noteは気づきの記録
「思いつくまま書いてみよう」と見切り発車したnoteは、現在まで180日以上続いています。
毎日ドラマや事件があるはずもなく、かといって何もないというわけでもない。些細なことでも拾い上げて文字をのせれば文章になる。
眉月がきれいとか、チョコレートを口に運ぶ前に落として悔しかったとか。話しはそこから広がっていくものなのですね。小さな気づきの記録がわたしのnoteです。
能力を「たっぷり」使い切ろう
能力に戻りますが「能力とは物事を成し遂げる力」
堅苦しく考えるのは苦手なので、簡単に言い換えると「好きを見つける力」ではないでしょうか。
好きでなければまず始めないし、楽しくなければ続かない。関わりを持てません。難題ばかりで楽しくない時は二度とやりたくないし、継続など夢のまた夢。
noteでは毎日投稿される方がいれば、不定期投稿もあります。何気ない日常を切り取って思わず唸る言い回しでエッセイを提供してくださる方、時事をテーマに深掘りする方、1枚の写真と短文で暮らしを表現する方。いずれもみなさんの好きが伝わります。対象が人、動物、風景、食べ物、趣味など多彩で、好きが充満してはじけそうなパワーを感じます。
これらが能力を「たっぷり」使い切っている状態なのです。1人1人がクリエーターであり、創作であり、言葉を集めて形にする。これが能力でないはずがない。ゆっくりたっぷり能力を食い尽くす、しかも無料!贅沢の極みですね。
ようやくデカルトとつながりました。
憧れはあってもうらやましいとは思いません。それは個々人の能力なのだから。決して同じものは手に入らない。だからわたしはそれを心待ちにして純粋に楽しめばいいのです。
毎日投稿や継続は大切な要素ではありますが、何をどのような切り口で書いているのか、その変化を見たい。これがmy noteの最大の関心事です。
いつか投稿は止まります。わかっているからこそ1回1回の気づきを端的に表現して記録と記憶に残し、当日限定で二度とやって来ないわたしの能力を「たっぷり」使い切って明日に残したいと痛切に思うのです。今日で終わったら明日は来ないので、たっぷりと。
能力をたっぷり使い切るのは自身のためだけではなくて、人のためでもあります。さまざまな記事を拝読して実感したnoteの大切な要素です。
同じことばかりを記事でリピートしていますが、我が能力をたっぷり使っている証明だと超前向きに解釈しています。
またかい↑
しかし、またもや気づいてしまいました。
たっぷり?
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