孔子が示した「大義」の心 【『論語』『左伝』に学ぶ】
これは衛の国で起きた斉豹の乱に対する孔子の批評です。
詳細は省きますが、斉豹は、君主である霊公の兄=公孟縶を祭祀の最中に暗殺し、一族を皆殺しにします。
この乱を知った霊公は国外に脱出しました。避難先では同盟国である斉軍に夜間警固を頼み、身の安全を保つ必要があるほどの大乱であったそうです。
孔子はこのような不義(正義に反する行い)を強く非難しました。
不義を懲らしめ、その所業をはっきりと罪として末永く歴史に残そうとしたのでしょう。結果として「斉豹の盗にして孟縶之賊なり。」という孔子の強い言葉が記されることになったと言われています。
同様のことは、斉の国でおきた臣下による国家乗っ取り事件でも確認することができます。
斉の国は、周を建国する際に軍師として文王と武王を助けたと言われている太公望の封地です。斉の国では、代々、君主は太公望の子孫が後を継いでいました。
ところが、哀公14年、陳成子(陳恒)は、斉の君主であった簡公を殺して君主の座におさまります。陳成子は、後に田常(田恒)と呼ばれるようになり、以後、斉の国は田氏斉と言われるようになりました。戦国時代に孟嘗君の活躍で有名になった斉の国というのは、この田氏斉のことで、孟子が一時期立ち寄ったとされています。
この事件のことを耳にした時の孔子の行動について、次のように記されています。
斉の君主が臣下に暗殺されるという不義の行為を許すことができないため、魯の君主である哀公の御前に斎戒沐浴して赴き、討伐軍の出撃を上奏したのです。
余程の大事件だったのでしょう。
この時のことは、『論語』の中でも確認することができます。
この時の孔子は70歳を超えていたそうです。
「七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず」(為政篇)という孔子の言葉は有名ですが、不義な行為と知りつつ放置したままにはしませんでした。
その言葉通り、孔子が実践した悪を懲らしめ不義を正す行動は、非常に敏速なものでした。
しかし、当時の魯国では、三桓氏と呼ばれていた孟孫氏・叔孫氏・季孫氏に国家の実権が握られていました。もちろん、兵を動員するか否かを決める兵権も例外ではなく、この三氏が首を縦に振らない限り、軍隊が動くことはありませんでした。
だからこそ、君主である哀公も「夫の三子に告げよ。」としか言えない状況だったのでしょう。
同じく家臣という立場であった孔子も、この哀公の言葉には従わざるを得ませんでした。
当時の孔子の立場では、これが限界でした。このように孔子の優れた進言も活かされることなく終わってしまいました。
結果こそ孔子が望むようなものとはなりませんでしたが、彼の勇気ある義の言動は、二千年以上の月日を超えて、見習うべき行動として沢山のことを教えてくれます。
孔子が説き続け、その行動や生き様で示した五常(仁・義・礼・智・信)は、中国や日本という東アジア圏の国々のなかで、今も息づいているのです。
現代社会において、事なかれ主義で長いものに巻かれて生きるということも、処世術としては正しいことかもしれませんが、『論語』をはじめとした四書五経を学ぶことで、「義を見て為さざるは勇なきなり」という大義に生きる勇猛の心を思い返すことも、たまには必要なことではないでしょうか。