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『寛』か『猛』か 【鄭の名宰相・子産の遺言「左伝」】

中国春秋時代の国=ていの宰相・子産しさんは、亡くなる直前、後継者の子大叔したいしゅくに「国家運営のポイント」を言い残しました。

唯だ、有徳のみく寛を以って民を服す。
其の次は猛にくはなし。
れ火は烈し。民望みて、これをおそる。
故に死するすくなし。
水は懦弱なり。民はれて之をもてあそぶ。
則ち死する多し。故に寛は難し。

『左氏会箋』(富山房)より

(訳)
有徳者なればこそ寛大な政治で民を服従させられるので、秩序は保てる。
では、徳のない者の次善の策は何か。
それは法の運用などを厳格にし、信賞必罰をはっきりさせることである。
火というものは激烈なものだから一度燃え広がると、民は遠くから眺めて恐れるしかない。
だからかえって安全で死者も少ないのだ。
ところが水は柔弱だから、民は軽くみて、あなどりもてあそぶ。
そこで水死者が多く出るのでかえって危険なのだ。
だから、寛大な政治とは難しいのだ。

『春秋左氏伝(下)』小倉芳彦訳(岩波文庫)P.220参照

国家でも会社でも、組織の中で地位や役職を得た途端、必要以上に周りに愛想よくし、人気取りに励む人がいます。
きっと小心者で、持ち前のプライドの高さが邪魔をしているのでしょう。
良い人を演じるために、自然と優しさと寛大さを前面に出して、人と接することになります。
しかし、そんな底の浅い態度は、周囲の人たちに簡単に見抜かれてしまうものです。部下の中には、面従腹背する者も少なくないでしょう。

これと比較すると、
「自分は人から好かれるためにやっているのではない。」
「役割と立場と責任を全うするために、人に嫌われても構わない。」
と厳格な態度で、あくまでも任務を忠実に実行し、信賞必罰を断行している人は、意外にも、部下からも慕われ、尊敬されているものです。
『三国志』で有名な諸葛孔明も、「泣いて馬謖ばしょくを斬る」の故事が示す通り、厳しい姿勢を貫くことで、部下たちからは怖れられながらも、尊敬され愛されていたと言われています。
このように常に大局からみて、組織の秩序を維持するために、軍律を断行する姿勢をみせることで、かえって部下の尊敬を集めていたのです。
人から評価や好意を得たいと思っている人ほど、その底意を見抜かれて、軽蔑されてしまうものです。そのように底が浅い人は、組織のリーダーに推されることもないでしょう。

子産は、前543年に伯有の乱を収拾し、以後20年間、正卿として鄭国の政治を行っています。彼は、優れた政治的手腕と博識をもって、晋と楚という強国にはさまれた小国でありながら、鄭を戦禍から守りました。
内政においても、税制や田制を改革し、貴族間の紛争を調停していきます。中国最初の成文法を作り、法治主義による統治を実現したのも彼の偉大なる業績の一つです。
子産の人間中心の考え方や合理主義的な考え方は、あの孔子にも強い影響を与えたと言われています。

そんな厳格に法の運用をする『猛』の政治をしていた子産が亡くなってしまいます。
次に、その政治を引き継ぐこととなった子大叔は、残念ながら子産のように『猛』の政治をすることができませんでした。

政を為すに猛に忍びずして寛たり。
鄭国盗多し。
大叔これゆ。
曰く、吾れ早く夫子に従はば、ここに及ばずと。
徒兵を興して以って、萑符の盗を攻め之を殺す。

(訳)
国政を担うにあたって、『猛』の政治を行うことができず、
『寛』の政治をしていた。
そのため、鄭の国は、盗賊が増えてしまった。
子大叔は、そのような国内の状況をみて、
子産の言う通り、もっと早く『猛』の政治をしていれば、
このような事態にはならなかったはずだ、と後悔していた。
結局、彼は、兵をあげて盗賊団を撃滅することで、
この事態を終息させた。

『左氏会箋』(富山房)

ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクは、
「愚か者は経験から学ぶ。余は歴史から学ぶ」
と言いました。
歴史には、学ぶべき教訓がたくさんあります。
事が起きてしまってから、慌てているようでは間に合わないのです。

日本では古くから「左伝」や「史記」が、必読の史書として尊重されてきました。
経営者の中には、「十八史略」を勧める人も多くいます。
やはり、歴史を学ぶことは、リーダーの素養として必須のことなのでしょう。



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