本当の「知行合一」とは 【王陽明『伝習録』に学ぶ】
陽明学と聞くと、まず思い出すのが「知行合一」という言葉でしょう。
ビジネスマン向けの解説本などでも取り上げられることが多いため、ひょっとしたら、この言葉自体は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、それだけに非常に誤解されている言葉でもあります。
「知行合一」の「知」のことを、
・知っていること
・知性
・知識
という捉え方をしているとしたら、それらは全て間違っています。
ビジネス本などで「知っていることを行動におこせ」という解説がされることもありますが、これは本来の「知行合一」が意味するところではありません。
「知行合一」にある「知」とは、「良知」のことです。
陽明学では、人が生まれつき誰もが持っている「潜在的な神性」「霊性」「聖性」のことを「良知」と定義しています。
これは言わば「魂」「神魂」と呼べるものでしょう。
この「良知」=「魂」を全面的に発揮することを「良知を致す(致良知)」と表現しています。致良知によって、人は誰でも聖人になれると言うのが王陽明が最も伝えたかったことです。
陽明学とは「聖人の学問」(=聖学)なのです。
「人は誰でも聖人になれる」という前提があるからこそ、「常に聖人に至る志をもて!」と教えているのです。
陽明学の祖である王陽明が著した『伝習録』には、「良知」について述べられている箇所がいくつもあります。
「知行合一」に関しても、次のように記されています。
「行の明覚精察」という言葉が表していることは、天地を造化した精霊であり、万物を造った宇宙意思とも言える良知を明らかに自覚し、細やかに精密に察することで良知を発動することが行であると言うことです。
これが「良知を致す」ということなのです。
単に「手足を動かせ」「身体を使え」という意味ではありません。
ビジネス本にある「知ったことをすぐに営業に活かせ」というように身近な例で語られるような浅い概念ではないのです。
「致良知」には、宇宙意思を動かすといったニュアンスが含まれています。
良知を発動することが行になるというのが、「知の成」「知の功夫」という言葉で表現されています。
良知を致すことが「知の眞切篤実のところ」です。
これは極まった真剣な状態で全身全霊を駆使して良知を発動している、いわゆるエネルギー全開で魂が発動していることを「行」と言っているのです。
陽明学で大事なコンセプトとされている「事上磨錬」も、実は「致良知」のことを表しています。
陽明学の「人は誰でも聖人になれる」と言うことも、仏教のように世俗の生活を捨てて出家し、独り静かに座して思索しないと覚ることができないという意味ではありません。
役人は役人の仕事の中で、商人は商人の仕事の中で、良知を致して神性・霊性・聖性を発揮させることができれば、日常の生活の中でも聖人になれるというのが陽明学が目指しているところです。
そのような仕事をすることができれば、常人には不可能とも思えるような神がかり的な成果を残すことも夢ではないでしょう。
陽明学は「良知心学」とも言われています。
日本では、石田梅岩などによる「心学」として、武士だけでなく、農民や商人たちの間で広く普及しました。
学問をしたい者は、身分や職業に関係なく、誰でもやることができるというのは、今でこそ当たり前のことに思えるものですが、江戸期の多くの国々で行われていた教育事情を見渡しても、大変に稀な文化的土壌であったといえるでしょう。
このように陽明学は、江戸時代に庶民教化の学問として大きな役割を果たしていました。
これは大乗仏教でいうところの衆生済度の教えが具現化したものと言えるかもしれません。
江戸から明治へと時代が移り、富国強兵が達成され、欧米列強にいち早く追いつき肩を並べるほどの功績を続々とあげることができたのも、一部の上流階級だけでなく、いわゆる庶民の間でも「学問」=「聖人に至る道」を志すことが当然のように行われていたことが要因であるのは間違いないでしょう。