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一即多 多即一 【W・ジェイムズ著『プラグマティズム』】
ジョン・ステュアート・ミルにささぐ
私が初めてプラグマティックな心の寛さを学んだ人、
また、なお世にいますならば、
われらの指導者として仰ぎたく思う人であるから。
1907年4月、W・ジェイムズが、ハーバード大学で掲げた序文です。
彼は、『自由論』を著したJ・S・ミルに、深く謝意を捧げています。
1906年~1907年にかけて行われた彼の講演をまとめたものが、『プラグマティズム』です。
その第一講「哲学における今日のディレンマ」では、次のように述べています。
およそ一個の人間に関して、もっとも実際的で重大なことは、なんと言っても、その人の抱いている宇宙観である。
(中略)
哲学者は自己の気質に適する宇宙観を求めるものである。
特にプラトン、ロック、ヘーゲル、スペンサーらはかかる特異な気質をもつ思想家である。
いずれにせよ人は事物を観察すべきであり、しかも自分独特の方法で、まっすぐに見るべきであって、自己と反対のものの見方ではいかなるものにも満足しえない。
この対立について、ジェイムズは次のような例を挙げています。
合理論的か経験論的か、
楽観論的か悲観論的か、
宗教的か非宗教的か、
自由意志論的か宿命論的か
・・・など。
その中でも、特に注目すべきは、
一元論的か多元論的か
の対立についてです。
事実は善いものである。原理は尊いものである。
世界は一面から見れば疑いもなく一つである。
しかし、他面から見ると同じく疑いもなく多である。
一種の多元論的一元論を採らざるを得ないではないか。
この後、彼は第四講で「一と多」というテーマで講義をしています。
これを見て思い出すのは、中国仏教の華厳経にある「一即多 多即一」の思想でしょう。
どんな微細なものでも、根源的に独立しているものはないという。
一つの部分は他の部分と相互に関連し合っているものであって、この相互関係の全体的調和こそ世界の真の姿でなければならない。
それぞれの中にすべてがあり(一即多)、
すべての中にそれぞれがある(多即一)
という『華厳経』の思想は、東洋の長い歴史の中に生き続けてきた。
これは華厳思想の第一人者である鎌田茂雄さんによる解説です。
原理と事実は対立的であるように見えて、互いに他を生かしあう「理事無礙法界」から、事実と事実が円融し、一即多、多即一の「事事無礙法界」が展開するのを理想とするのが、華厳の宇宙観です。
日本人はミクロコスモスの中に、マクロコスモスを見いだすという宇宙観や自然観を理想としてきました。
現代においても、あの名作漫画「風の谷のナウシカ」の中に、次のような王蟲の台詞が登場します。
小さきものよ。お前のことはよく知っているよ。
我らは『個にして全、全にして個』なのだからね。
森林の木々に囲まれた中で、ふと空を見上げた時、宇宙の中で生きている「自分」について考えてしまうのは、ごくごく自然の流れなのかもしれません。