見出し画像

複合的な視点をもつ 【『論語』『左伝』に学ぶ】

あやまちて則ち改むるにはばかること勿かれ。(学而篇)
あしたに道を聞かばゆうべに死すとも可なり。(里仁篇)
義を見て為さざるは勇無きなり。(為政篇)
己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ。(顔淵篇、衛霊公篇)
人知らずしてうらみず、亦た君子ならずや。(学而篇)

『論語』より

『論語』は孔子とその弟子たちの言行録をまとめたものですが、国や時代が異なれども、今でも見聞きする素晴らしい言葉に溢れています。
克己復礼を貫く孔子の生き方は、当時はもちろん、現代でも学ぶべきものとされていることもあり、冒頭のような言葉は中高生などでも知っているはずです。

ところが、実際に『論語』を『左伝』と合わせて読んでいくと、孔子の意外な一面を垣間見ることができます。

ちん司敗しはい問ふ、
昭公しょうこうは礼を知るか。
孔子曰はく、
礼を知る。
孔子退しりぞく。

【現代語訳】
陳の司敗が孔子に、
「あなたの主君昭公は礼を知っておられるか」
とたずねたところ、孔子が
「礼を知っております」
と答えてそのまま引きさがった。

『新訳論語』穂積重遠訳註(講談社学術文庫)より

ここに登場する昭公というのは、魯の国で紀元前541年から32年間、君主の座にあった人です。
『左伝』によると、彼は魯国の宰相格で有力な家臣であった季孫意如(季平子)を排除するために邸宅を襲撃し、逆に返り討ちに遭い国外に逃亡しなければいけない事態に追い込まれます。結局、そのまま異国の地で息を引き取ることになるわけですが、その辺りの顛末が『左伝』には詳しく描かれています。
家臣の制止を振り切り、「季平子を絶対に討て」と命令する姿。
襲撃を受けた季平子が逃げながら高楼に昇り、
「いったい私にどのような罪があるのか、どうかお調べください」
と叫んだ時も、昭公はそれを許さなかったという記事を見ても、昭公がどのような人物であったかおおよそ見当が付きます。
『左伝』から読み解ける昭公の人物像を前提とすると、『論語』にある孔子の「礼を知る」という言葉がしっくり来ません。
当時家臣であった孔子は、昭公の人柄も十分に理解していたはずです。
それでも魯国の防衛という観点から、対外的にあのような発言をした可能性が考えられます。

中高生レベルの道徳や倫理などでは、このような外交辞令を口にする孔子像は登場しないでしょう。
そのため、倫理の教科書を読んで、冒頭にあるような孔子の教えを知ったようなつもりでいても、原典である『論語』自体に触れて、それを精読することによって初めて理解することができる孔子の姿は、全く異なるものとなってしまうかもしれません。
複合的・多重的に読んでいくことで、春秋戦国時代を実際に生きた人物として、私たちの目の前で活き活きと動き出すようになるからです。
これこそが、四書五経を精読する醍醐味だと言えるでしょう。

なぜ二千年以上も読み継がれているのか。
一文一文に、もっと深い意味があるのではないか。
言葉通りに受け取って良いのか。
言葉の真実性を裏付ける補強証拠はないのか。
時代背景は?
この時の政治的立場や状況は? ・・・等々
『論語』にある孔子と弟子たちのやり取りを一つひとつ読み解いていくだけでも、相当に時間がかかるはずです。
日常の忙しさなどを理由として、さらっと解説しているものを読んだり、ネットで簡単に検索した記事を読んだりするだけで満足しているようでは、本当に勿体ないです。
面白いことに、社会的に高い地位に就いている人物ほど、多忙の中でも読書を欠かしません。古今東西の名著や古典を読むことで教養に磨きをかけています。読書で足りないときは、著名な学者や専門家などに教えを請うこともいとわず、無理やり時間をつくって勉強会に参加するなどして、貪欲に学問を続けています。
時間が無い、お金がない・・・などと出来ない理由を挙げている暇があるなら、どうしたら学ぶことが出来るのかを考えた方が余程有意義と言えるでしょう。
その点、もう学びたいことで溢れている自分は、しあわせな人生を送ることができているのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集