「抵抗の精神」について (慶應高校の入試問題から)
「読書論」(岩波新書)で有名な小泉信三さんのエッセイの中で、「福澤が西郷を弁護する論拠は『抵抗の精神』にある」としています。
(このエッセイは、2018年の慶應高校入試で出題されています。)
福澤が「平和主義者」であったことは、有名な話です。
「ペンは剣よりも強し」が慶應義塾のトレードマークとなっているのも、それが理由です。
しかし、「丁丑公論」を読んでもわかることなのですが、専制というものに対しては、「『抵抗の精神』をもって闘うべきだ」という強い意思を感じます。
これは、どうみても、J・S・ミルの「自由論」やH・D・ソローの「市民の反抗」の影響を受けていると言わざるを得ないでしょう。
慶應大学法学部の論述力テストでは、「抵抗権」に関する問題が出されています。(2011年)
福澤が現代に生きていたら、その問題で出てくる「実定法的抵抗権」を、憲法論として積極的に認めていたかもしれません。
私学の精神というものは、このような自由主義、個人主義に基づく「抵抗の精神」にあると言えるでしょう。
ただし、その「抵抗」が、単なる反乱や内乱に終わらないためには、「国を救うため」という大義名分が必要となります。
自分たちが貧しく生活に困っているから、食料や金品を強奪するという「民衆の反乱」とは明らかに異なるものなのです。
福澤は、自分の生活のためだけに生きる「小市民根性」というものを嫌悪していました。
彼のこの姿勢から、「何のために生きるのか。それは天下国家のためである。」という明治人の気骨を感じることができます。
それは儒教の根底に流れる「修身斉家治国平天下の精神」と言うこともできるでしょう。
『抵抗の精神』や『自由主義』『個人主義』は、「天下国家のためのもの」であり、「人類平和のためのもの」でなくてはならないのです。