「抵抗の精神」について (慶應高校の入試問題から)

「読書論」(岩波新書)で有名な小泉信三さんのエッセイの中で、「福澤が西郷を弁護する論拠は『抵抗の精神』にある」としています。
(このエッセイは、2018年の慶應高校入試で出題されています。)

「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法げんと雖も、に一人をるるに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず。国法は萬代の国法に非ず。他日この人物を用るの時ある可きなり。是亦おしむ可し。」とその死を惜しんでいるそうです。
これは「明治十年 丁丑公論ていちゅうこうろん」という一文にあるもので、「抵抗の精神」という言葉も、「私の知る限り」最初にこれを用いたのは福澤で、この「丁丑公論」(でした)

『小泉信三エッセイ選 2 私と福澤諭吉』(慶應義塾大学出版会・2017年)より(括弧内筆者補)

福澤言わく、「専制を欲しないものはない。それは個人も政府も変りはない。だから政府の専制はどがむべきではないが、それを放置すれば際限がないから、そこで抵抗の精神というものが大切となる。然るに近来日本の実情を察っするに「文明の虚説」に欺かれて、抵抗の精神は次第に衰えて行くようである。
いやしくも国を憂うるものは、これを救う手段を講じなくてはならぬ。抵抗の法は一ではない。文をもってするものがあり、武をもってするものがあり、更に金をもってするものがある。
『今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然かんぜんすべきものなし。』」としています。

『小泉信三エッセイ選 2 私と福澤諭吉』(慶應義塾大学出版会・2017年)より

福澤が「平和主義者」であったことは、有名な話です。
「ペンは剣よりも強し」が慶應義塾のトレードマークとなっているのも、それが理由です。
しかし、「丁丑公論」を読んでもわかることなのですが、専制というものに対しては、「『抵抗の精神』をもって闘うべきだ」という強い意思を感じます。
これは、どうみても、J・S・ミルの「自由論」やH・D・ソローの「市民の反抗」の影響を受けていると言わざるを得ないでしょう。

慶應大学法学部の論述力テストでは、「抵抗権」に関する問題が出されています。(2011年)
福澤が現代に生きていたら、その問題で出てくる「実定法的抵抗権」を、憲法論として積極的に認めていたかもしれません。

私学の精神というものは、このような自由主義、個人主義に基づく「抵抗の精神」にあると言えるでしょう。
ただし、その「抵抗」が、単なる反乱や内乱に終わらないためには、「国を救うため」という大義名分が必要となります。
自分たちが貧しく生活に困っているから、食料や金品を強奪するという「民衆の反乱」とは明らかに異なるものなのです。

福澤は、自分の生活のためだけに生きる「小市民根性」というものを嫌悪していました。
彼のこの姿勢から、「何のために生きるのか。それは天下国家のためである。」という明治人の気骨を感じることができます。
それは儒教の根底に流れる「修身斉家治国平天下の精神」と言うこともできるでしょう。
『抵抗の精神』や『自由主義』『個人主義』は、「天下国家のためのもの」であり、「人類平和のためのもの」でなくてはならないのです。


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