福翁自伝を読む③ 「長崎遊学」 【慶應義塾中等部対策】

安政元年二月、まだ19歳だった福澤が、故郷を離れて、オランダ語を学びに長崎へ行きます。
これこそ「修学旅行」と言えるでしょう。
本来、学問を修めるためのものが「修学旅行」だからです。
福澤は、旅行の動機について、こう述べています。

その時分には中津の藩地(福澤の故郷)に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。

「新訂 福翁自伝」岩波文庫 P.27

蘭学者である杉田玄白や前野良沢が、オランダ語で書かれていた「ターヘルアナトミア」という解剖学の原書を翻訳して、「解体新書」という書物として出版したのが、18世紀中頃=田沼時代のことでした。
福澤は19世紀の人ですから、蘭学は、その当時、既に100年の歴史があったことになります。
杉田玄白や前野良沢が、千住骨ヶ原の刑場で死刑囚の屍体の「腑分け」(解剖)を見て、オランダ語で書かれた解剖書の精密さに驚き、その翻訳を思い立った時、彼らは福澤と同じように、アルファベットすら知りませんでした。
杉田玄白が書いた「蘭学事始」には、その時の心境が述べられています。

『ターヘルアナトミア』の書に打向ひしに誠に艪舵ろだなき船の大海に乗出のりだしが如く、茫洋として寄べきなく、只あきれにあきれて居たる迄なり。

杉田玄白著「蘭学事始」

「こう記された一節が福澤諭吉をして感泣せしめた」と、小泉信三さんは「読書論」の中で述べています。
後に福澤は、この「蘭学事始」を自ら費用を弁じて版本を作らしめ、明治23年に、その再版本を世に出したそうです。(「読書論」岩波新書P.33~34)

「蘭学事始」は、小学6年の時に愛読していました。
特に、杉田玄白よりも、前野良沢が気に入って読んでいました。
前野良沢は、翻訳のために、わざわざ長崎にいたオランダ語の通訳の家に寝泊まりして、皿洗いをしながら、オランダ語を学んでいました。
しかし、「解体新書」を出版する時、「自分のオランダ語は、何の役にも立たなかった。恥ずかしいから自分の名前は出さないでくれ」と言ったそうです。(このあたりは、吉村昭さんの「冬の鷹」という小説に詳しく書かれています。)

現代でも、語学留学が行われていますが、そこには、福澤諭吉や前野良沢のような真剣さはあるのでしょうか。
自分が知る限りでは、福澤たちのように「命がけで何かつかんでくるぞ」という真剣さを感じることは、あまりありません。
留学に行って、どれだけのものが吸収できるかは、取り組む姿勢に比例するでしょう。
軽い気持ちで向かえば、軽いものしか吸収できません。
深い精神性を会得した上で、学問に取り組む時に、はじめて深い中身が吸収できるのです。
そのためにも、「福翁自伝」のような歴史を作った名著に記されている高い精神性に触れる必要があるでしょう。
先人達が、今よりも不自由な環境の中でも、真剣に学問を修めようと苦労した様子を知ることで、学問に対する心構えが違ってくるからです。

「福翁自伝」にある「長崎遊学」は、そのような心構えを知るための最適なテキストと言えるかもしれません。
学問の心構えは、いつ会得しても良いものなのですが、できることなら、頭と感性が柔軟な小学生のうちに学ぶことが、最良と言えるでしょう。

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