早稲田の古文 夏期集中講座 第10回 登蓮法師
歌道における数寄者(すきもの)として登蓮法師という人がいました。徒然草第百八十八段にあるエピソードです。
「人の、数多(あまた)有りける中にて、或る者、〈ますほの薄(すすき)〉〈まそほの薄(すすき)〉などいふ事有り。渡辺の聖(ひじり)、この事を伝へ知りたり』と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠や有る。貸し給(たま)へ。かの薄(すすき)の事、習ひに、渡辺の聖(ひじり)の許(がり)、尋ね罷(まか)らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨、止みてこそ」と人の言ひければ「無下(むげ)の事をも、仰(おほ)せらるる物かな。人の命(いのち)は、雨の晴れ間をも待つ物かは。我も死に、聖(ひじり)も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけり、と申し伝へたるこそ、ゆゆしく有り難う覚ゆれ。「敏(と)き時は、則ち功あり」とぞ、『論語』と言ふ文(ふみ)にも侍るなる。この薄(すすき)を訝(いぶか)しく思ひける様に一大事の因縁をぞ思ふべかりける。」
思い立ったが吉日、人はいつ死ぬかわからない、無常迅速・生死事大である、と言うのでしょう。
徒然草のこの段は、余計なことをしないで一事を全うせよ、と繰り返し述べています。何も捨てないで、あれやこれやと手を広げていけば一事も成し遂げられないと教訓を言っているのです。
「一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷(いた)むべからず。人の嘲(あざけ)りをも恥づべからず。万事に替へずしては、一(いつ)の大事、成るべからず」としています。
「ますほの薄(すすき)」については、鴨長明の「無名抄」にも記述があります。ここでは、雨の中を渡辺の聖の所へ行こうとする登蓮法師のことを「いみじかりける数寄者なりかし。」と褒めたたえています。注によると、数寄者とは、「風雅なこと、特に和歌を好む人。『好士』というのに同じ」としています。(『無名抄』久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫)
実は「ますほのすすき」「まそをのすすき」「まそうのすすき」と三種類あるのだ、としています。
「ますほのすすきといふは、穂の長くて一尺ばかりあるをいふ。かのます鏡(真澄の鏡)をば、万葉集には十寸の鏡と書けるにて心得べし。まそをのすすきといふは、真麻の心なり。これは俊頼朝臣の歌にぞ詠みて侍ゐ、『まそをの糸を操りかけて』と侍るかとよ。糸などの乱れたるようなり。」
とあります。
俊頼の歌については「花すすきまそほの糸を繰りかけて絶えずも人をまねきつるかな」という歌だそうです。(同書P145)
三つ目の「まそうのすすきとは、まことに蘇芳(すほう)なりといふ心なり。真蘇芳(ますほう)のすすきといふべきを言葉略したるなり。色深きすすきの各なるべし。」としています。(同書P32)
なお登蓮法師の各は、『発心集』第三(八)「蓮花城入水(れんげじょうじゅすい)の事」にもあります。蓮花城という聖が極楽往生を願って、京都の桂川に身を投げたけれど覚悟が足りず物の怪となって、登蓮法師のもとにあらわれる説話を載せています。<終>
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