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第16回 建礼門院右京大夫集(2) 【早稲田の古文・夏期集中講座】

2020年の早稲田大学教育学部で出題されたのは、
元暦二年(1185年)三月の壇ノ浦の合戦で、平資盛たいらのすけもりが死に、それを知った右京大夫の思いが綴られている箇所です。
 
作者は、悲しみのあまり正気(うつし心)を失い、もうあの人の事は忘れたい(いかで今は忘れむ)と思っているようですが、それができないでいるようです。
まずは歌です。

ためしなき かかる別れに なほとまる 面影ばかり 身に添うぞ憂き
 
いかで今は かひなきことを 嘆かずて 物忘れする 心にもがな
 
忘れむと 思ひてもまた 立ち返り なごりなからむ ことぞかなしき

三番目の歌は、解釈問題(問二十二)となっていますが、「なごり」をそのままストレートに「名残惜しい」の㊁と考えるのは、あまりにも短絡的でしょう。「思い出がなくなってしまう」の㋺が正解となります。
 
この後は、生前の資盛との約束、即ち「後世のとぶらひをしてほしい」ということがわかっていれば、問二十四の「何を『身一つのこと』と思ったのか」という問いに対し、迷うことなく㋑の「資盛の弔い」が選べたでしょう。これはZ会の「最強の古文」の問題を解いていれば、楽にできたはずです。

この後、後世のとぶらひのやり方が、具体的に続きます。

反古ほうご選り出だして、料紙にすかせて、経書き、またさながら打たせて、文字の見ゆるもかはゆければ、裏に物押し隠して、手づから地蔵六体墨書きに書きまゐらせなど、さまざま心ざしばかりとぶらふも、また人目つつましければ、疎き人には知らせず、心ひとつに営む悲しさも、なほ堪へがたし

一人で地蔵仏六体書いて供養する有様を、できるだけ見知らぬ人には見せたくないと思いつつも、一人のつらさを感じています。

さすが積もりにける反古なれば、多くて尊勝陀羅尼、何くれさらぬことも多く書かせなどするに、なかなか見じと思へど、さすがに見ゆる筆の跡、言の葉ども、かからでだに、昔の跡も涙のかかるならひなるを、目もくれ心も消えつつ、言はむ方なし

筆者は、今は亡き資盛の手紙の筆跡や言葉の多さを目の当たりにして、茫然自失のようです。
肉体はこの世になくとも、筆跡がその時その時の情景をありありと呼び覚ますのでしょう。
もしこれが、能の舞台ならば見せ場のひとつになるでしょう。
魂は時空を超えて「幽玄」の世界をあてどなく彷徨するでしょうから。
 
終わりに二つの歌で締めくくられます。

かなしさの いとどもよほす 水茎の 跡はなかなか 消えねとぞ思う
 
かばかりの 思ひにたへて つれもなく なほながらふる 玉の緒も憂し

ここでは、
「水茎の形で書かれたような筆跡も消えてなくなれ」
「魂を肉体につなぐ緒も切れてなくなれ」
という悲哀が表現されていることがわかるでしょう。

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