第9回 大隠は朝市に隠る(1) 【早稲田の古文・夏期集中講座】
白楽天の詩
白楽天の詩『中隠』に、次のような言葉があります。
鴨長明は『発心集』という仏教説話集の中で、「天王寺聖 隠徳の事」で、優れた極楽往生を願う人の最も優れた有様として、次のような一文があります。
仏道修行をする人は、「徳を積むこと」を修行の眼目とします。
経典を唱えたり、写経をしたりすることも、「徳を積む修行」の一環です。
これによって、仏様から功徳を頂くのです。
この功徳が高ければ、あの世に行っても極楽浄土に往生できるからです。
しかし、このような姿勢は、修行としては余り良いことではありません。
人にわかるような徳というのは「陽徳」といって消えやすいものです。
それと比べて、人からは認識されない「陰徳」というものは、なかなか消えて無くなりません。
鴨長明が考える「徳高き人」とは
その一つとして「乞食行」という修行方法があります。
それは、ボロボロの着物のまま町中で物乞いを行う修行です。
この修行の間、人からもらった食べ物を食べて命をつなぎます。
そこでは、人から馬鹿にされたり、石を投げられたり、殴られたりしても、決して怒ってはいけません。
人からどんなにひどい仕打ちをされても、相手に対して「仏の御加護あれ」と祈らなくてはいけないのです。
これは、六波羅密にある「忍辱の修行」(人からの侮辱を耐え忍ぶ修行)です。
これによって、御仏の慈悲を実践するのです。
冒頭にあげた「小隠は山の中に住む」という言葉は、
「乞食行」のような町中で実践する厳しい修行と比べると、山中に隠れて「滝に打たれたり」「野山をかけめぐったり」する山岳修行は、ずっと楽であるということを表しています。
俗世間の中にあって、俗に流されず、聖なる仏の修行を実行することは、
人里離れた山中でする修行よりも、何倍も厳しい修行となることは容易に想像できるでしょう。
それだけ厳しい修行となることから、徳も高くなるのです。
人からすごいと賞賛されるような修行は、まだまだ徳が低いと言えるでしょう。
人から馬鹿にされるような「屈辱に耐える」修行ほど、徳高き修行はないのです。
鴨長明は、「大隠、朝市にあり」という言葉で、「人中にあって、人からわからないように徳を隠しているのが本物だ」と言いたいのでしょう。
徳高いことを人から喩られないにするのが、徳高き人のあり方なのです。