曹操という人物について知ろうとした時、まずは資料として正史『三国志』に拠る場合が多いでしょう。
それに加え、人物像を掘り下げようとする時、傍系と言われる資料にも目を通すことになります。
京劇では、曹操に扮する役者は、姦悪を表す白で地塗りをした上で、細線で隈取り、陰険な相となるように工夫しています。
話にメリハリをつけ面白くするために、強い悪役が必要とされるからです。
しかし、実際の曹操は、『治世の能臣』と言われるほど有能な人物であったようです。
詩人として作品も残しており、武芸や学問もおろそかにしなかったと言われています。
曹操が生きた後漢の末期は社会が乱れており、災害や流民、暴動や外敵の侵入などが絶えなかったと言われています。
このような乱世では人物の良さよりも能力に秀でていることが重視されます。能力がなくても人柄の良さだけで通用するのは、平和な時だけだからです。
曹操は有能であったため、後に「乱世の姦雄」と言われるようになったのでしょう。
乱を鎮圧するには、反逆者を躊躇なく処刑する果断さが求められるからです。
軍律違反者を処分しなければ軍紀は乱れ、強い軍隊とはなれません。
厳しい処分をしないことは、己の保身しか考えられない優柔不断な事なかれ主義者がやることです。
曹操の能臣ぶりが最大限に発揮されたのは、「黄巾の乱」が発生した時でしょう。
済南(山東省)の長官となった直後、賄賂受け取り放題で、無法の限りを尽くしていた役人を8人罷免したそうです。
また、この地方は、景王劉章を祀る祠が600以上もあり、商人たちが楽人を集めて派手な宴会を催す一方で、一般民衆は貧困に苦しんでいました。
曹操は着任するや、それらの祠をことごとく破壊したため、以後怪しげな鬼神を祀る風習が絶たれたと言われています。
これによって、黄巾の乱をおこした太平道という道教集団に与えた影響も大きかったことは間違いありません。
悪を裁くことで非情に徹した曹操は、「治世の能臣」「乱世の姦雄」として歴史に名を残しました。
動乱の時代こそ、真にその人物の人間性が露呈します。
悪を目の前にして、
「我が身可愛さで保身のあまり逃げまわる人生を送るのか」
「悪と正面から戦って征伐するのか」
どちらかを選ばなければならなくなった時、自分であればどうするか考えてみると良いかもしれません。
ヒューマニズムといっても、状況によって全く異なる対応が必要となってきます。
真のヒューマニズムとは大変に奥が深いものであることを、曹操の生き様から学ぶことができます。