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曹操は本当に悪玉だったのか 【『三国志』に学ぶ】

曹操という人物について知ろうとした時、まずは資料として正史『三国志』に拠る場合が多いでしょう。
それに加え、人物像を掘り下げようとする時、傍系と言われる資料にも目を通すことになります。

傍系の資料といえば、われわれが曹操という人物を考える場合、明初の羅漢中らかんちゅうの著した歴史小説『三国志演義』、および、それに先だって語られていた講談や、三国時代に取材した戯曲の影響を無視することはできない。
曹の文豪蘇軾そしょく(1036~1101)が友人から聞いた話として、つぎのように伝えている。「町っ子たちは腕白で、家ではうるさがり、困ると銭をやって講談を聞かせにやる。話が三国の事に及び、劉備がけたと聞くと、顔をしかめ、涙を流す者までいる。曹操が敗けたと聞くと、喜びはしゃぐ。いちど君子だ小人だときめつけられると、それはいつでも消えないのだなあ」(『東坡志林』に見え、魯迅『小説旧聞鈔』・『中国小説史略』にも引用されている)。これは、宋代にすでに民衆の間に固定した曹操像が作りあげられていたことを示している。
『三国志演義』は、正史『三国志』その他の史書にもとづき、かなり正確に史実を追って展開されてはいるが、このような講談や芝居の台本の影響をも受けた作者の創作の部分もある。ところが、長年にわたり、広く愛読されている間に、史実と創作部分の区別すらつかなくなってしまいがちであった。(中略)
『三国志演義』の作者は、蜀漢を正統王朝とし、曹操を臣下の身でありながら主家をうばった悪玉に仕立て上げた。劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょう関羽かんう張飛ちょうひらは、超人的な才知を備え、正義の武勇を発揮する善玉として描かれ、曹氏一統は陰険な仇役に終始する。知識人たると一般民衆たるとを問わず、中国においてこの小説ほど広く、そして長い間愛読された小説はないだろう。したがって、中国人の脳裡に浮かぶ曹操像とは、ほとんどすべてがこの小説、ないしはこの小説と同様の感動を民衆に与えてきた芝居を通じて形成されたものであると考えてよい。

『曹操』竹田晃著(講談社学術文庫)

京劇では、曹操に扮する役者は、姦悪を表す白で地塗りをした上で、細線で隈取り、陰険な相となるように工夫しています。
話にメリハリをつけ面白くするために、強い悪役が必要とされるからです。
しかし、実際の曹操は、『治世の能臣』と言われるほど有能な人物であったようです。
詩人として作品も残しており、武芸や学問もおろそかにしなかったと言われています。

武芸は並ぶ者なく、彼を傷つけることのできる者はいなかったという。また、彼は群書を博覧し、とくに兵法を好み、後に諸家の兵法を集めて『接要』と名づけ、一方、孫武そんぶの兵法に注釈を施した書十三篇を著しており、その一部は今日に伝えられている。

『曹操』竹田晃著(講談社学術文庫)

曹操が生きた後漢の末期は社会が乱れており、災害や流民、暴動や外敵の侵入などが絶えなかったと言われています。
このような乱世では人物の良さよりも能力に秀でていることが重視されます。能力がなくても人柄の良さだけで通用するのは、平和な時だけだからです。
曹操は有能であったため、後に「乱世の姦雄」と言われるようになったのでしょう。
乱を鎮圧するには、反逆者を躊躇なく処刑する果断さが求められるからです。
軍律違反者を処分しなければ軍紀は乱れ、強い軍隊とはなれません。
厳しい処分をしないことは、己の保身しか考えられない優柔不断な事なかれ主義者がやることです。

とは、各県に置かれ、盗賊を捕えたり、刑罰に処したりする権限をもつ武官である。
操は着任するや、ただちに県城の四方の門を改修し、門の左右に十本余りの五色の棒を懸けておき、出入りのおきてに背く者があると、かたはしからこれを棒でなぐり殺させた。相手がいかに権力のある者であろうと豪族であろうと容赦しなかった。(中略)
任官早々にして、曹操の法の施行に対する峻厳な態度と、権勢に屈せぬ心意気が発揮されたわけである。都では、みな息をひそめて行動を慎み、禁を犯そうとする者はなくなった。

『曹操』竹田晃著(講談社学術文庫)

曹操の能臣ぶりが最大限に発揮されたのは、「黄巾の乱」が発生した時でしょう。
済南(山東省)の長官となった直後、賄賂受け取り放題で、無法の限りを尽くしていた役人を8人罷免したそうです。
また、この地方は、景王劉章を祀るほこらが600以上もあり、商人たちが楽人を集めて派手な宴会を催す一方で、一般民衆は貧困に苦しんでいました。
曹操は着任するや、それらの祠をことごとく破壊したため、以後怪しげな鬼神を祀る風習が絶たれたと言われています。
これによって、黄巾の乱をおこした太平道という道教集団に与えた影響も大きかったことは間違いありません。

悪を裁くことで非情に徹した曹操は、「治世の能臣」「乱世の姦雄」として歴史に名を残しました。
動乱の時代こそ、真にその人物の人間性が露呈します。
悪を目の前にして、
「我が身可愛さで保身のあまり逃げまわる人生を送るのか」
「悪と正面から戦って征伐するのか」
どちらかを選ばなければならなくなった時、自分であればどうするか考えてみると良いかもしれません。
ヒューマニズムといっても、状況によって全く異なる対応が必要となってきます。
真のヒューマニズムとは大変に奥が深いものであることを、曹操の生き様から学ぶことができます。

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