ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが著した『弓と禅』は、Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズが愛読していたことで知られています。
この本の中で説かれている境地で有名なものと言えば、「的を狙うな」ということでしょう。
これこそが、「的を狙う」行為です。
ヘリゲルに弓を教えていた師匠は、当時日本一の弓術家で「弓聖」と称されていたほどの名人=阿波研造なのですが、単に的を狙う弓を良しとしませんでした。
彼は、嘉納治五郎の「柔術から柔道へ」に影響を受け、それまでの「弓術」を「人間学を修める行としての弓」を追求する「弓道」とすることを提唱した人物です。
何が何でも的に中ててやろうと必死になったからといって、的に中たる訳ではなく、自分でない「何か」が動いた時に、「自然と矢が放たれ的に中たる」ということが紹介されています。
それは、枝に積もった雪が、突然その重みによって、ドサッと落ちるような自然さであるとしています。
ヘリゲルと師匠の間では、「自分ではない何か」のことを『それ』と表現しています。
これは禅の世界でいうところの「物我一如」や「主客不二」といった境地なのでしょう。
自己の内部にある霊性や神性、聖性や仏性というものが光を放ち輝き始めると、外的世界にある万物も同調して光り輝き、道ばたの石ころですら輝いて見えてくるといった歓喜の極致を表現しています。
「主体と客体は、もともと一つである」という深い悟りは、お釈迦様が言った「天上天下唯我独尊」と同じ境地なのかもしれません。
あらゆる技巧を尽くして的に中てようとする小我を捨てて、宇宙という大我と一体となり、本当の自分=真我が目覚めた瞬間に矢を放つことで、初めて射中てることができるのが、師がヘリゲルに伝えようとした「的」なのです。
ヘリゲルが弓道を修得する上で到達した境地とまではいかなくとも、現実界の中でも、似たようなことを体験することは出来ます。
就職や受験、オーディションなど、人生を左右するような大事な場面では、人はとかく我力でその壁を乗り越えようと必死になりがちです。
しかし、ある程度、対策を練って万全な準備をした後は、肩の力を抜いて、自然体で構えていた方が、かえって物事はスムーズに進んでいったりするものです。
的は「狙うもの」ではなく、的と一体となった時に「中たるもの」であるという境地は、我々にとても大切なことを教えてくれているような気がします。