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僕の大学時代 【小林秀雄「私の人生観」より】

「僕の大学時代は辛かった」と小林秀雄は言います。
フランス象徴派詩人の泥沼にのめり込んで、詩病しびょうにかかってしまったことが原因のようです。
「自分の才能の不足に忠実で、ただもう非常に辛く不安であった」と言っています。
その一方で、「その不安から得をした」とも思っていたようです。

ただし、現代の学生諸君(昭和12年当時)が別にどうという風にも考えない、不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。
学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎる。

小林秀雄「私の人生観」より

自分の大学時代を振り返ってみた時、幸か不幸か、不安だったことは一度もありませんでした。
それは、国家試験を受けるために、法学部に在籍していたことが大きく関係しているかもしれません。
法学は、人を安心させるためのものです。
それは、社会や法秩序の安定を目指すからでしょう。
社会秩序の安定のために、国家の治安を安定させることこそが、法学の目的と存在意義だからです。

その一方で、文学というものは、基本的に人間の内面を深く掘り下げていくため、人を不安にさせる要素が少なからずあります。
人を癒やし安心させるような文学も多いのですが、人を不安に陥れるようなものも同じくらい存在していることは事実です。
特に小林のように、詩病しびょうにかかってしまった人は、苦しみが大きいのかもしれません。
生きることに対して、「不安が大きいから、詩人になるのか」「詩人になってしまったから、不安が大きいのか」その因果関係はよくわかりません。
詩人に比較的短命な人が多いような気がするのも、そのような「生に対する不安」が影響しているからかもしれません。

為政者の立場にいる時、社会を不安に陥れるような発言は、厳に慎まなくてはなりません。
社会のリーダーとして、常に人心を掌握し、人心を収攬し、人心を安定させることが求められます。
生活に不安な気持ちを抱いている庶民のリーダーは、彼らの不安を解消するような政策を、次々に実現していかなければならないのです。
そのため、為政者は、「詩病」にかかっているようでは務まりません。
詩病にかかるような未熟さは、為政者にとって最大の敵だからです。

小林秀雄が、為政者たりえないのは当然と言えるでしょう。
子供の教育は、このような為政者になるための資質を養うために行われるべきだと考えています。
儒学の理想は、「修身斉家治国平天下」です。
まずは、自分の身を修めることから、国家安泰の道が始まるのです。
身を修めるとは、向上心をもって、自分の理想とする人生を堂々と生きることです。子供たちに教えるべきものは、社会人として堂々と生きるための「自信と誇り」です。
どんな分野に行っても通用する、「常に向上心をもって、努力に励む」という人生観を教えることが肝要なのです。

人生経験が乏しく未熟な時は、人を勇気づけ元気にするような文学以外は、手の届かないところに置いておくべきでしょう。
中学入試では、明るく前向きで発展的な物語が、多く採用されています。
そういった意味でも、退廃的で気が滅入るような文学は、子供の教育のためには必要ないと言えるでしょう。
そのような本は、特に親や教師が与えなくても、進路や恋愛に悩む頃には、勝手に手に取るようになるからです。


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