「言語の本質 ―ことばはどう生まれ、進化したか」(中公新書、今井 むつみ, 秋田 喜美著)
新書大賞2024の本です。
遅ればせながらやっと読むことができました。
※Amazonのアソシエイトに加入しています。
今井むつみさんの本は、最近新刊が出てこっちも読んでみたいですね。
「言語の本質」。とても壮大なテーマです。
ここに切り込んでいくなんて、なかなか壮大過ぎて、勇気がいることだと思います。
「言語の本質」というテーマで何かを書くとしたら、いろいろな切り口、中身がありえそうです。言語学的な意味か、歴史学的な意味か、哲学的な意味か、はたまたコミュニケーション論的な意味か……
本書の最大の特徴は、この壮大なテーマへの切り込み方にあると思います。
正直に申し上げて、なんて独特な入り方なんだろうという印象を持ちました。え?そこから「言語の本質」の中に入っていくの?そんな感じの意外な切り口でした。
頭の固い人間だからかもしれませんが、「言語の本質」を語ろうとしたら、まず「言語」とは何か?みたいなことを論じて、定義づけをして、そしてその定義の中で、言語にとって重要な要素=「本質」を論じていくみたいな論述スタイルを予想してしまうところです。
そのような固い予想に反した切り込み方をしていくのが本書。
その切り口とは……それはズバリ、
「オノマトペ」です
本書は、「オノマトペ」から、「言語の本質」の森の中へと切り込んでいきます。
オノマトペというのは擬声語、「ベタベタ」とか「ワンワン」とか「ゴロゴロ」とかのあれです。
ここから「言語の本質」へと切り込む。
もうこの時点で、ワンダーランド感満載です。
もしかしたら、本書を既に読んだ方の中には、読んでから「最初に思ってたんと違う」という感想を持った方もいるかもしれません。それは、たぶん最初に予想していた切り口と全然違う切り口で「言語の本質」に向かっているように感じ、ちょっとついて行きづらくなったからではないかと思います。
そのくらい実は、意外な入り方なのではないかと思うのです。
オノマトペを、言語学者は、「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式をもち、新たに作り出せる語」と定義します。言い換えると、オノマトペには、物事の一部分をアイコン的に写し取るアイコン性があります。
たとえば、「ハラハラ」と「バラバラ」と「パラパラ」は、感覚イメージ的な違いがあります。「h」「b」「p」の違い、なんとなくありますよね。
この「アイコン性を駆使した感覚イメージの写し取り」これが、本書では「言語の本質」に迫るカギになってきます。
一方で、オノマトペは、言語ではないか?というと非言語音ではなく「言語」の枠に入ります。これは、口笛や咳払いといった非言語音と比較すると言語です。
つまり、オノマトペは、言語性と身体性の両方を兼ね備えているというかその間に位置するのではないか。
ここを切り口に「言語の本質」に迫ろうとする推論過程。
つまり、言語は、抽象的な記号の体系である一方で、その誕生、つまり人間が言語を使いだしたきっかけは何らかの身体的な性質を兼ね備えているはず、そうすると、オノマトペを分析することによって、「言語の本質」に迫れるのではないか?
これが序盤のハイライトかと思います。この切り口が面白かったです。
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さて、オノマトペをどう料理するか。
中盤戦は、子どもの言語習得過程に着目します。
オノマトペは感覚的で身体的です。子供が使う斬新なオノマトペに大人が感嘆することは珍しいことではありません。
しかし、言語はただの「身体性」では終わらない。ことばは、やがて身体性を離れて独自の意味を持ち始めます。
子どもは、勝手に意味と音を結び付け始める。実際に子供は一般化のかわいい誤りをしてしまうことがあります。
ひとつこんな例が挙げられていました
子どもは、入手した言葉と意味を一般化していく。ここでは、ミカンを食べることも「あちぇちぇー」と一般化しています。
その過程は、子どもなりに考えたうえでのある意味で恣意的な一般化です。逆に言うと、ここで起こっているのは、推論によって、オノマトペだけの世界から離れ、抽象度が上がり、その一方でことばのアイコン性が薄まっていくということ。
こうして、最初はたくさんの感覚イメージと音を結び付けるだけの言語習得だったのが、徐々に言葉の形式(音)と意味の関係が整理されて結び付けられていき、結果知っている言葉の数やバリエーションが増えていきます。
そして、実はここでは終わらない。今度は恣意的に一般化して抽象化した言葉のうちから似ている言葉を集めて、体系化するようになっていきます。
そうするとどうなるか。
本書は、再び別のアイコン性が生まれるといいます。
たとえば、言葉の体系化の結果、「h」は軽い。「b」は重いといったイメージが現れます。これは、世界的にほかの言語で見てもそう大きくはずれないそうです。身体的に得た感覚的イメージが、記号化され、それが一般化されていき、個別の感覚イメージを介さない別のアイコン性が生まれてくる。
これは、オノマトペをベースにした個別の感覚を写し取るアイコン性とは違う別のアイコン性です。言葉を集めて共通点を見出すことにより、はじめて発現してくるアイコン性といえるかもしれません。
本書は、このサイクルを「一次的アイコン性→恣意性→体系化→二次的アイコン性」と整理します。
さて、ここまで整理して、本書はここからどうやって「言語の本質」に迫っていくのか……?なぜ、アイコン性を二つに分けたのか?なぜ、このサイクルを提唱したのか…?
気になってくるかもしれません……が、長くなったので、この辺にしておきましょうかね(笑)
ここでは、この謎に迫るヒントをいくつか上げて、あとは本書を読んでくださいということにしようと思います。
ひとつは、「記号接地問題」。これはもともと人工知能において問題とされているそうです。これは、「ことばの本当の意味を理解するためには、丸ごとの対象について身体的な経験を持たなければならない」という問題とのことです。たとえば、「イチゴは、甘酸っぱくておいしい」という記号をインプットしていたとしたら、AIは、記号解析の結果、パイナップルの味もイチゴの味と思ってしまうかもしれない。大量の記号的情報をインプットしたAIは、はたして本当にイチゴを知っているということができるのだろうか。
もう一つは、「アブダクション推論」。
これは、帰納、演繹に続く第三の推論として本書では整理されています。よく科学の仮説形成の時に用いられます。
ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則という仮説を立てたみたいなやつです。
この推論の特徴は、まだ、わからない一般法則を発見するための仮説形成のための推論であるということ。ゆえに、間違っている可能性もあるかもしれないということです(意味深)。
最後まで読むと、本書が壮大なアブダクション推論であることに気がつきます。
オノマトペ、2つのアイコン性、記号設置問題そしてアブダクション推論、このあたりをヒントに本書は「言語の本質」にどのように迫っていくのか!?気になった方は、ぜひ読んでみてください。
冒頭で申し上げた最新刊の「学力喪失」は、この推論を踏まえた新刊なのかなあ、改めて読んでみたくなりました。
そんなわけで、また年末に読む本が増えたと思いつつ、「今日一日を最高の一日に」