「人が人を罰するということ」(山口尚著)と「責任という虚構」「人が人を裁くということ」(小坂井敏晶著)~自由意志と虚構のチート合戦
久しぶりですが、読書会で読んだ本(たち)がいい感じに面白かったので投稿します。
「人が人を罰するということ」(山口尚著)
「増補 責任という虚構」(小坂井敏晶著)
「人が人を裁くということ」(小坂井敏晶著)
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読む前の期待と誤解(笑)
読書会の課題本は、「人が人を罰すること」(以下、山口本)の方でした。
「人が人を罰するということ」というタイトルから、例えば、死刑は許されるかとか、犯罪者の処罰が正当化されるのはなぜかといったことが説明されるのかと思っていましたが、第Ⅱ部くらいから予想に反し、「自由意志」とは何かという空中戦に連れていかれました(笑)
私が期待していたのは、「こういうふうに考えるべき」という意味での「正当性をめぐる議論」ということが分かったのですが、そうではないことが判明し、まあ、そこから先は迷いの森に導かれてドツボでした。
そして、自由意志論で山口本が乗り越えようとする相手が「責任という虚構」(以下、小坂井本)だったわけです。
乗り越えるべき相手 小坂井の虚構論
山口本では、刑罰の意味について、大きく分けて、「応報」と「抑止」があげられています。なお、他にも「祝祭」とかいろいろ意味があることが第Ⅰ部には書いてあります。
しかし、そのあと、第Ⅱ部以降に論じる対象は「応報」に集中していきます。というか、もっと突き抜けて「自由意志があるか」という、哲学フィールドの深淵な(しんどそう、だけどはまると抜け出すのがきつそうなところ笑)に連れていかれました。
「応報」は、「被害を与えたことに対する報い」というイメージでたぶん大きく外していないと思いますが、これは、やらなければ「やらない自由」があったのにやった、だから「責任」を追及するというもので、人間に自由意志が存在することを前提とする責任主義と結びつくというのが一般的な理解だと思います(小坂井本では、その理解がそもそもどうなの?みたいな言及があった気がするのですが、通説的な考え方はこうだと思います)。
この理解は、近代の個人主義、人権の尊重と結びつく考え方で、今の法律の一般原則にも結びつくのだろうと思います。
ここに「自由意志などない、責任は虚構だ」というぶっこみを入れたのが「責任という虚構」だとおもいます。
自由意志が効かないミルグラム実験や意志の前に脳が動くリベットの実験などから、自由意志の虚構を暴き、その状態(あくまでも「状態」。べき論ではない)を説明するわけです。
小坂井は、挑発します。つまり、人間には自由意志はない、自由意志は近代以降に後から作られた装置であり、社会秩序を維持するためのスケープゴートとして「責任」を負わせ、刑罰を与えるという制度にしたのだと言います。
これに、山口本は黙っていられなかったのでしょう(笑)。第6章以降は、ひたすら小坂井本を倒すための論旨を展開していくように見えます。
強敵であることを認め、人間の生きる力で立ち向かう
一方、山口本には、小坂井本に対するリスペクトがあります。
小坂井の主張には価値があるのだということを山口本は強調します。しかし、それでも自由な選択はあるのだ。
「必ずや何かしらの意味で」というところに意地を感じます笑。
そして、これに対する山口本の切り札は、なんと
「人間の生の一般的枠組み」
すべてを虚構といって無効化するかのような小坂井チート本に対し、「人間の生」を繰り出すという胸熱展開です。
人間の生には、一定のフレームワーク(枠組み)のようなものがある。その枠組みには、<主体><行為><自由><選択>といった概念がある。これらは、ふだん気がつかずに従っているところの生の形式である。
そして、このフレームワークに<応報>と<責任>も含まれているのだ、と山口本は主張します。
これは、ストローソンという人の論文からひもといているそうなのですが、「ひとを責めることは正当でありうるか」という問いは責任概念の無理解を示すといいます。
つまり、<応報>や<責任>は最初からフレームワークの中に入っちゃっているのだから、正当化するとかしないとかそういう問題じゃない、自然なあり方として人間の生の一般的な形式の一部だ、というわけです。
相手を強敵と認めた相手に対し、ちょっと強引ですが、捨て身でぶつかっている感じがします。
さながら、虚構といってすべてを無効化してくる相手に対して、グランドクルス的な根源の生命エネルギーでぶつかっていくかのごとく、山口本のチート能力が発動しています。
意地でも虚構から引きずりだそうとする
さらに、山口本は、意地でも小坂井本を責任の世界に引きずり込もうとします。
すなわち、小坂井は、自由意志肯定論者を批判した。
つまり、自由意志は認めるべきではないという主張をした。
それは、他の論者を責めているのであり、自身の応答に責任を負う。
だから責任は虚構だというのは自家撞着だ。
このあたりにも何としてでもという意地を感じます。
山口本のやや強引すぎる感じのする論旨が成功しているのかはさておき、なんでこんなに意地になっている(感じがする(わたしだけかも))のだろう、これは、小坂井本の原著に当たるしかなかろう、ということで、山口本の後に小坂井本を読みました。
近代の原罪 小坂井のスタンスがチート
小坂井本(責任という虚構)では、文庫版から「近代の原罪」と題する補考が加えられており、それは、以下の記述から始まります。
あくまでも、「責任という社会現象は何を意味するのか」ー状況を見るだけですーといっています。
そして、近代個人主義的了解の誤りを指摘し、道徳や社会秩序の「根拠生成」を検討するといっています。「生成根拠」ではなく、「根拠生成」です。
つまり、いいとか悪いとか、普遍的な根拠があるかとかじゃなくて、根拠がどうやってできるのかを見ていくよ、といっているのだと思います。
そして、その結論がスケープゴートとして「責任」を負わせることにしたというちょっと常識から外れた「責任」の正体を暴くわけです。虚構を暴くことで、我々はいかに誤った常識に囚われているのかを目の当たりにします。ただ、「スケープゴート」って言い方は挑発的な感じはします笑。
補考では、リベットの実験を経てもなお自由意志はあると主張する哲学者たち(大澤真幸・河野哲也・古田徹也・國分功一郎・斎藤慶典)に、やはりそれは無理があるという論旨を展開します。
補考のなかには、國分功一郎の以下の文章の引用があります。
やっぱり挑発的だったんですね(笑)。
5人の哲学者の本を全部読んだわけではないですが、哲学者達のリアクションが激しめだったのだろうと想像します。
「自由は責任を根拠づけるために動員される虚構だ」との主張は、近代個人主義に真っ向から対峙するもので、それをそのまままるまる虚構と見ることには、自由意志肯定論者は慎重にならざるをえなかったのでしょう。
山口本は、挑発的な物言いに反応したのでしょう。あんた、責任は虚構だといっているのに、めっちゃ他説を責めてるじゃないかと。物言いがもう少し柔らかかったら、こんなに激しめのリアクションではなかったかもしれません(笑)
ということで、私としては、結局、当初の想定を大きく外れて壮大なチート合戦を見させられたわけです。
自由意志はあるのかないのか、責任は虚構なのか、その結論は当然私にはわからないのですが、どう落とし込んだらいいのかを考えて寝たいと思います。
生きる力と仕組みを見抜く力
絶対に決着がつかなそうな、壮大な議論に巻き込まれてしまったのですが、自分なりにどうやって落とし込んだらいいのか。
それは、なぜ彼らが(これほどムキになって(私見))、自説を展開したのかを見るといいのかなと思います。
まず、山口本では以下のような記述があります。
著者は、科学的世界観を認めることに苦しみ、煩悶したとあります。
そこで、哲学を追究し、〈自由〉や〈選択〉などの概念が適用対象をまったく持たないということはありえないという事実を見いだしたとあります。
これは、「人間の生」であり、生きる力です。
悩み抜いた結果、生きる力を肯定する事実を見いだすことで、グランドクルス的なパワーが出ること、これは合っているか間違っているかとは別次元で、生きる勇気をくれる気がします。
一方、小坂井本では、最後に以下のような記述があります。
虚構とか無根拠とか一筋縄ではない事象を鮮やかに説明していると思います。
小坂井本は、規範論に逃げるのではなく、その不思議な現象を根っこから解明する認識論を徹底しています。この探求を怠ってしまっては、常識の罠にかかってしまう。
我々が社会、歴史、文化条件に拘束されながら実際にどう生きているのかを虚心に見つめること、これもまた、我々が生きていく上で大切な力を教えてくれているような気がします。
というわけで、どっちのスタンスも大事にすべきという「べき論」に落とし込んで、この辺で寝たいと思います。
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