noteは宗教ではない
先日あった「なぜ私は書くのか」のコンテスト
先日、中間選考があった。私は、中間選考に対して落選をしたし、落選したことも納得したので、どうこういう立場でもないし、特にこれ以上言うこともないと思っていた。
ただ、その後の動きでいろいろ思うところがあった。
「なぜ私は書くのか」今、書かなくていつ書くの?
そんな気がしてしまったので書いてみることにした。
このコンテストで特徴的だったのが、審査方法と発表方法である。
中間審査は、主催者の藤原華さん本人ではなく、一般の読者の観点から藤原華さんのマネージャーさん(ジャスミンさん)が選考するという形式だった。
現在、藤原さんによる最終選考が行われている。
さらに、今回特徴的なのは、中間選考で落とした理由を記事にしているということである。
これは読み手にとって、とても気になる話だと思う。どこが悪かったのか改善点を分析するのに、選考理由とくに課題点を指摘してくれるのは大変ありがたい。
そして出てきた「中間選考で落とした理由」を書いた記事。正直びっくりしてしまった。
ここまで書いちゃうのかと……もっとさらっと書いてあるのかと思っていた。
しかも、中間選考の発表の前日に出している。このタイミングで、こんなに赤裸々な内容の「落とした理由」を書くというのは、書いて投稿しただけですごいと思った。
ただ、一方で正確ないい回しかわからないのだけれど、ちょっと「怖く」なってしまった。
この記事は、私のように中途半端な気持ちで書いて応募した者にとっても、応募した人間はその内容が絶対に気になってしまう。しかも、テーマが「私はなぜ書くのか」という重めのテーマ。ものすごい覚悟で投稿した人がたくさんいることは応募作品を読んでいてよくわかっていたから、そういう人は絶対に気になって、ただならぬ気持ちで読んでしまうはずである。
この記事は、そういう人に対して、かなりの揺さぶりをかける内容だった。批判が飛んでもおかしくないような内容だとも思ってしまった。
おそらく、投稿した藤原さんとジャスミンさんはそのことを分かったうえで、投稿したのだと思う。本文の中にもそのことに対する葛藤が書いてあった。
なので、「心配」になってしまった。いや、私が心配することでもないのだけれど、正確にいうとちょっと怖くなってしまった。比較的穏当なnoteの世界に賛否両論が巻き起こりそうな気がして、ちょっと気が休まらなくなってしまうかもしれないと思ってしまった。
特に、選考をしたのは、藤原さんではなく、普通の読者のマネージャー(ジャスミンさん)である。ほんとうに余計な心配なのだけれども、心配になってしまった。
なので、この記事が出たことに対して、思わずコメントを書いてしまった。
これは、ジャスミンさんに当てて書いたものだが、もしかしたら、自分がこれから揺さぶられる可能性があることが、怖かったのかもしれない。
落選理由を書いた記事の、何がすごいかっていうと私は「勇気」だと思う。
内容の前に、この赤裸々な「落選理由を書いた記事」を投稿したことそのものに対する勇気がすごいと思った。だから、その行動は尊重したい、肯定したいと思って、悩んだけど中間選考の発表の前にコメントしてしまった。
私が怖がっていたのは何なのか?
それは、「揺さぶられた人たちに生じる流れ」である。
ここまで「揺さぶられる記事」でどうやって記事を書いたらいいのか、かなり具体的に書いてある。もしかしたら、みんながみんなこの記事と同じようなスタイルで記事を書くようになってしまうのではないか。あたかも宗教のように。
ここまで影響力のある方が、この流れで揺さぶりをかけ、そして出された文章の書き方、むちゃくちゃ持って行き方がうまい。ほんとうにプロの人は凄いと思った。そして、本気でやってる。覚悟みたいなものに圧倒された。影響を受ける人はたくさんいるだろうし、間違っていると思わない。そこまでやったことを本当に尊重したい。
だからこそ、ちょっと怖くなってしまった。
で、結果は落選だったので、私としては納得できた。まあ、残念だけど、今後は自分は自分のペースでゆるりとnoteでも書くかーと思っていた。
そんななか、むちゃくちゃ考えさせられる記事が投稿された。
これもまた、揺さぶられる内容だった。内容は、中間選考についてであった。
めぐみティコさん読ませていただきありがとうございます。引用失礼いたします。
今回の選考について、めぐみティコさんは、中間選考に通っていらしたのだけれど、真正面から異を唱えていた。正直、自分も思ってしまったけど、怖くて言えなかったことが書いてあった。こういう内容が出てきても絶対におかしくないと思った。
この記事についても、一番すごいことは、この記事を出す「勇気」だと思う。
揺さぶられるし、めぐみティコさんの文章そのものにも力があるし、ホントすごいと思った。共感できるところも多かった。これもまた影響を受ける人がたくさんいると思うし、私もすごく刺激をうけた。
でも、やっぱりちょっと怖くなってしまった(いや私の勝手なんですけど)。
note内に賛否両論が渦巻く投稿がいろいろなところから出てくるのかもしれない。いや、それは悪いことではない。そういう投稿も絶対に必要だと思う。ホントに余計な心配かもしれないけれど、私はちょっと怖くなってしまった。ちょっとザワザワした気持ちになってしまった。
では、どうしたらいいのだろう。
私は、「なぜ、私は書くのか」をもう一度考えようと思った。
この記事がなぜ落選したのか。その理由は、はっきりしている。この記事には「なぜ、私は書くのか」を書いていないのだ。明確に書くことが恥ずかしかったので、はっきり書くことを避けた。他の人と覚悟が全然違った。
でも、ちょっとは書いてみたい
私には、すごい覚悟があるわけではないけれど、このノリとスタンスでnoteを書いてみたい。
それは、「ことばが流れを変える瞬間」があると信じているからである。
「ことばで流れを変える瞬間」を作ってみたい、だから書いてみたい。
この記事にも書いたけど、ちょっとした気づきが流れを変えることを当事者同士が意識すれば、対立したり、批判したり、非難したりするのとは違うかたちで良い流れを生み出していけるのではないかと信じている。
あるいは意見が対立していたり、批判したりしている関係であっても、話には流れがあり、ことばが健全な流れを生み出しうることを意識すれば、必要以上の誹謗中傷に陥らずに、議論をかみ合わせることができるのではないかと思っている。
私は、noteを書いている中で、そんなことばを得る機会を探しているつもりである。
今回のことに関していえば、たぶんちょっと難しかった記事なんだけどこれのことを書いてみたい。
普遍的なものはあるのだろうか。
例えば、文章を書くにあたって絶対的に正しい書き方なんてあるのだろうか?
「絶対的に正しい究極の文章の書き方はある」
「いや、そんなものはない。ひとそれぞれだ」
ここで、人それぞれで終わってしまってもいいのかもしれない。でも、私のスタンスはこう。
「絶対的に正しい究極の文章の書き方はある」。でも、私はそれにたどり着くことはできない。
ただ、私にはこれが「絶対的に正しい究極の文章の書き方」だと私が「確信」することはできる。
藤原さんには、藤原さんの「確信」がある。
めぐみティコさんには、めぐみティコさんの「確信」がある。
すべてのクリエイターには「確信」がある。
あるいは「確信」を目指している。
私は、他の人の「確信」には決してたどり着けない。
どんなに頑張っても、私の「確信」にしかならないのだ。
だからこそ、私は、ちょっと上からっぽいけど、私以外の人の「確信」を肯定したいし、尊重したい。
八方美人という批判はあるかもしれないし、実際、八方美人なんだけど、「確信」の違いを認めつつ、お互いを尊重し共通理解をすることは可能だと思う。途方もなく難しいけど、そこに向かっていくことそのものには意味があると思っている。
結局何が言いたいのか?
noteは宗教ではない。
誰かを、盲目的に信じることがすべてではない。
私は、すべてのクリエイターの「確信」を肯定し、尊重したい。
そこから吸収し、私は、私の「確信」をより高めていきたい。
そして、私にとっての「絶対的に正しい究極の文章の書き方」という「確信」に向かっていきたい。
そして、他の人が同じように「確信」に向かっているのなら、まずそれを全力で肯定し、共通理解がどこにあるのかを見出したい。
そんなものはないのかもしれないし、一生かかってもたどり着かないのかもしれないけれど、最初から、人それぞれであきらめるんじゃなくて、積み重ねていった先にたどり着くものがあるんじゃないか、そう思っている。
私は、あなたが文章に込めた「確信」を知りたいと思って、また文章を読みに行きたいと思います。
そんなわけで、なんか最近エモい(?)方向に行きがちですが、「今日一日を最高の一日に」