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思いやりとは何なのか 昨日の話のつづき…

昨日の読書感想文で、「正義」と「公正」についての本を読んだことを書いた。

(※なんとこの感想文、朱喜哲さんご本人様からスキ!いただいていて朝からビックリです!!ありがとうございますm(__)mm(__)m)


そのなかで学んだことは
「正義」や「公正」は、
① 他者との基本合意を前提にしていること
② 思いやりや優しさといった気持ちの問題とは違うこと
と書いた。

「正義」は「善」とは違う。
優しさとか思いやりといった気持ちの問題とは違う。
「配慮」ではなく、「調整」なのだ。

といったことが書いてあった。

そのなかで、「公正」における「積極的無関心」というものがあげられていたことも象徴的だ。

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今日は、じゃあ逆に「思いやり」や「優しさ」といった気持ちの問題とはなんなのか?をちょっと考えてみる。

この点について、小林秀雄が、考えるヒント1の「良心」というエッセイのなかで嘘発見機の話をしている。

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嘘発見器は、被用者が嘘をついているという自覚を持っていることを前提としなければ意味をなさない。

その前提には、人間が良心を持っているという「人間への信頼」があるという。

嘘をついたら動揺をするのが人間だ、嘘をついても全く動揺しないなのは人間ではない、そういう良心を人間がもっていることを信頼しているから噓発見器が嘘発見器になる。


では、もし、嘘発見器が究極の性能を有したらどうなるか。
たとえば、閻魔のもっている照魔鏡のように、だれも心の内が見通されることになるとしたら。

もし、究極そうなったら、誰も悪いことはできなくなるだろう。
そうしたら、もはや良心を持つことが無意味になる。

それは、人間の性質を外部から変えうる性能をもつということでもある。
それが究極、すべての人に普及したら、、、もはや嘘発見器で人間を威圧するのではなく、その機械で、人間全員を善人に変えてしまえばいい。

・・・そうなったら、もはや人間ではない。

これは何を言っているのか?

おそらく、人間の良心は外部から近づくことができないということである。

つまり、人間の良心は、外部から無理やり近づこうとすると消えてしまう

このような考察から、良心の問題は、人間各自が謎を秘めていなければならないということを絶対的条件としていると小林はいう。

良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしない。
良心は、おそらく、理智ではなく、情である。
良心は、個人的で、主観的で、あいまいで得体のしれないものである。


小林秀雄は、本居宣長が、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」を選んだという。
これを、宣長は「はかなく、女々しき」と評した。

内的に経験される人間の「実情」は、個人の感慨の中でしか生きられず、組織化され社会化された力となることができないからだ。

つまり、「公正としての正義」にはならない。

だから、私たちは、皆ひとりひそかに悩むのだ、とも小林はいう。そもそも、悩むとは自分で自分を審くという厄介な意識そのものだ。


そうすると、「思いやり」や「優しさ」といった気持ちの問題は、人間各自が謎を秘めていること、心のうちに秘めていることを前提とし、それに無理やり近づこうとすると消えてしまうものかもしれない。人に押し付けることにも適していない。

だから、「正義」や「公正」は、気持ちの問題とは別の問題と考えるべきなのだろう。

一方で、良心は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりだという。そうだとしたら、「思いやり」や「優しさ」といった気持ちの問題は、集団化・社会化するようなものではなく、心の内に秘めつつも、命の敬虔に到達するための道のひとつなのかもしれない。

もし、正義が、ロールズのいうように「競合しうる善構想どうしを調停する」ものなのだとしたら、「思いやり」や「優しさ」といった良心は、心の内の問題なのだから、引っ張り出すことも、押し付けることもできない。しかし、人生を考えるただ一つの確実な手がかりなのであるから、人の「良心」には、「寛容」でありたい。これが「積極的無関心」なのかなと思う、そんな感じです。


ということで、寛容な心で、「今日一日を最高の一日に






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