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2025年大学入学共通テスト国語第1問の問題文「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」を普通のおじさんが考察してみたらクソ面白かった


先日、大学受験生の皆さんの共通テストがあったそうです。

問題と解答が公開されています。


最近の関心が国語的なものにあるからか、なんとなしに国語の試験を見てみました。

わたしは国語の先生でもなければ、受験業界の人間でもありません。最近はnoteで読書感想文を書いたり、他の方のnoteの記事を読んで過剰考察と称して、あーだこーだ好き放題書くのが趣味のただのオジサンです。

そんな受験界から遥か遠くにはなれたところにいる一般人が、こともあろうに、大学入試共通テストの問題を読んで、思ったことをあーだこーだ書くという意味不明なことをやることにしました。
問題文は公開されているので、全文読めます。


なお、先ほど述べたように、自分は国語の先生でもなければ、受験業界の人間でもありませんので、内容の正当性、信頼性にはまったく責任をもてません。
ただnoteというブログみたいなSNSを趣味でやっている人が、共通テストの問題文の感想を書いたってだけの話です。

第1問は、評論文です。

問題を効率的に解くためのテクニックというよりは(というかそんなテクニックはもともと持っていない)、この文章は実はこんなところが面白いよという話を書いてみました。

いってしまえば、いつもやってる読書感想文・考察記事の対象が、共通テスト問題文になったってだけです。


設問について、本記事では検討していませんが一応問題も解いてはみました。気が向いたら、あるいはリクエストがあったら、設問についても考察するかも。ただ、基本問題文を順番に考察したら、結局、設問と関係するような建付けになってたなあとは思いました。

ここで注意ですが、受験生のみなさんは現代文の問題文の文章を過剰考察する必要は全くないと思います。受験生のみなさん忙しいですよね。他にもいろいろ勉強することがあると思います。

内容があっているか、正確かは気にしすぎずに書いてみようと思います。そうじゃないと好き放題書けないので。だから、面白半分で見てくれる受験生がいたら、息抜き程度にみてもらえたらうれしいかなーって思います。


2025年大学入学共通テスト国語第1問の問題文「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」


問題文はこちらに公開されてるやつです。


書き出し

 アーリは「文化的なメガネ」という卓抜な表現をもちいて見ることの社会性を明るみにだしている。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


 まずもってみなさんが思い浮かぶことを代わりに申し上げましょうか。


「アーリって誰だよ」


現代文のテストは、こういうことにツッコミだすと永遠に終わりが来なくなるおそれがあります。
なので、まず、「アーリって誰だよ」という真っ当かつもっともなツッコミは横においておきましょう。「アーリが誰だかさっぱりわからなくても」この文章の面白さは味わえると思います。

そのうえで

「文化的なメガネ」という卓抜な表現


とあります。これはどういうことでしょうか。

その次の文には、「まなざしの枠組」とあります。

ところで、まなざしって便利な表現ですよね。

つまり、「ある人が見ている」んですよ。
このモチーフって、実際便利な気がするのです。

どういうことか?

「ある人が見ているとき」って、ぜーったい、先入観が入ってしまうんですよね。これを描写するときに「まなざし」というワードが便利な気がするんです。

いいかえると「ある人が見ているとき」に、主観って絶対入っちゃいますよねって話です。

つまり、「まなざしって、主観的に見ちゃうから、先入観って絶対入っちゃうよね」って話だと思うのです。

なるほど。じゃあなんで便利なんでしょうか?

便利なのは、この文脈に使えるからです。

つまり、「人によって見え方って違うよね」文脈です。

どうでしょう。「人によって見え方って違うよね文脈」ってめっちゃ汎用性高そうじゃないですか。

これを描くときに「まなざし」というワードは便利だと思うんです。あと漢字じゃなくてひらがなだからさ、なんか優しい感じもすると思うんですよ(笑)

さて、「まなざし」は、「人によって見え方って違うよね文脈」で使うのに便利っていうのを踏まえたうえで、

「文化的なメガネ」という卓抜な表現


です。

「まなざし」ハマりました。

そうしたら次の考察対象は、「文化的なメガネ」のほうになってきます。


「文化的なメガネ」とは何ぞや。

まなざしの枠組は規範や様式といった社会/文化的な制度によって規定されているのであって、決して個人が自由に個性的に対象をまなざしている訳ではない。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

分かりやすい対比がきました。

規範や様式といった社会/文化的な制度
  ↕
個人が自由に個性的にまなざしている

つまり、「まなざし」は、個人の問題じゃなくて、社会や文化の問題やでと言っているわけです。

ふーむ。ホンマかいな(なぜか関西弁)。

本文ですと、ベトナムを訪れる日本人は観光土産としてベトナムの伝統的な雑貨を買うが、欧米の観光客は東洋でひとくくりの発想で美術品の大きなツボを買うとか、グアムに行ったら日本人はビーチにしかいかなくて、その周りの現実的な場所には行かないみたいなことが書いてあります。

ふーむ。ホンマかいな(2回目)。個人差はあるような気はするけど……

ただ、先ほどと同様ここで突っ込みだすと現代文は話が進まなくなってしまうと思います。
ここでは、著者はそう考えているという前提で先に進みましょう。


それをさておいて、一つ言えることを補充します。

それは、「まなざしには選別が伴っている」ということです。
つまり、何をまなざすかは、見る人が恣意的に選択してるよってことです。

どうでしょう。品定めしながら選別しているような……なんかちょっとだけ怖くなってきますね。


中盤①

まなざしの線引きをおこなっているのはゲストだけではない。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


さあ、面白くなってきました(笑)

観光者のまなざしは、「文化的なメガネ」で選別して、観光地を見ている。
しかし、実は、まなざしの線引きをしているのは、観光者だけではなかったのだ……


橋本和也は観光者が期待する(押しつける)イメージに適合的な役割を観光地住民が再演することは、観光という荒波から自らの生活文化を守るためのホスト側の「戦略」でもあるという。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


橋本和也さんって誰だよ。ってツッコミはこの際やめておきましょう(笑)

つまり、見られる側の観光地住民も実は観光客のまなざしを意識しちゃってるよってことです。
やっぱ、「まなざし」ってワード便利。

そして、それは観光地住民側の「戦略」であるともいう。

もう少しみましょうか。

「刹那的」であると同時に(であるがゆえに)対象に魅力を感じるという観光のまなざしの暴力性はとどまるところがない。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

「刹那的」のところについては、注1がついています。
ある歴史学者が、鉄道が人間にもたらした知覚のあり方について、「対象をその刹那的性格のゆえの、逆に魅力あるものと見なす知覚」と評したそうです。
たぶん、鉄道に乗ると周りの景色はどんどん変わるから、ある景色が見えるのは一瞬の刹那じゃないですか、でも止まって見える景色と違って、魅力的なことってあるよね。って意味だと思います。

そのうえで、「観光のまなざしの暴力性」と説きます。

暴力性」っていうワードも便利ですよね。
このワードの効果っていうのは、文章に「なんだか穏やかじゃない感じ」を出すのに一役買うと思うのです。

なんで、観光のまなざしが暴力的なのか。

つまり、観光客は自分の「文化的なメガネ」で見たいように見たいものを選別してみるわけですよ。
それは、観光地住民からしたら、本当は見てほしい部分を見てくれないのかもしれない、あるいは、見られたくないものを見られるのかもしれない


そんなつらい事例として、この文章では、
万国博覧会での「人間動物園」
があげられています。列強国が植民地住民を展示品として見世物にするという胸クソ案件です。

「人間動物園」なんて、見られる側からしたら、絶対まなざしをむけられたくない部分じゃないですか。
これって何が言いたいかっていうと、見る方の観光客のまなざしって暴力的だよね、そんな一方的なまなざしを受ける観光地住民側はつらいよねってことになります。

観光者は「演出」に飽き足らずその「舞台裏」を見たがるのだから。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

舞台裏を見られても仕方がない、だから見られる住民側は「戦略」を立てるしかないのだ……


でも、これってつらいよね……

ありのままを見せる生活観光は、出口の見えない陰路でもあるだろう。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

まるで売れなくて、悩みに悩んで私生活を切り売りしてしまう芸能人のようです。私生活を見せることは一回はバズるかもしれないけれど、視聴者の次の期待に応えようと次はもっとセンセーショナルな生活の暴露を……みたいな感じになっていってしまうとどんどん際限がなくなっていってしまいます。


中盤②

 観光において「見る」ことは問題含みであるだけでなく、とくに「する」こととの対比において、価値のないものとみなされてもきた。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


ふーむ。次は「する」こととの対比ですか。

重層的・立体的になってきました。

 見る主体と見られる客体という、乗り越えがたい(ようにみえた)関係性は、意外な形で反転する。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


この展開ヤバくないですか!?

さっきの中盤①で、好き放題に見る観光客とみられたくないけど見られる観光地住民っていう対比があったと思います。そうすると、その次は、この観光地住民の可哀そうな話が続きそうな流れを予想するじゃないですか。

これが、そうじゃなくて「意外な形で反転する」んですよ。期待値上がりません?

ぶっちゃけて言うと、これまだ序盤の展開です。こっから、どんどん面白くなっていきますよ。

まずは、この反転を見てみましょうか。

 文化人類学や地域社会学、環境社会学による地域研究/観光研究は、生活者の視点にウエイトを置く。その土地に暮らし働く人びとこそが当事者なのであり、彼らの生活や文化を覗くために訪れて、そそくさと立ち去っていく観光者たちは招かれざる客として位置づけられてきた。
 観光のまなざしにおける消費主義や薄っぺらさを鋭く批判したのはブーアスティンだった。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

 「観光のまなざしは、暴力的だ。でもお前ら所詮見てるだけでしょ。真の主役は「する」側、つまりその土地に住み暮らす生活者の方だ。それを覗き見るだけでそそくさと立ち去っていく観光者はなんて、なんて薄っぺらいんだ。お前ら何かお呼びじゃないんだよ!」

 ってことを、私じゃなくてブーアスティンさんが言っています(笑)。

 「昔は旅は命がけだったのに、今の旅人はへらへら「見るだけ」でお気楽なもんだ。
 スポーツをやらないで、観戦だけしてるようなものだ。なんて「無意味」で「空虚」なんだ。
 「見る」だけの観光者なんて、「無意味」で「空虚」なのさ。あー薄っぺらい。」

 ということを私じゃなくてブーアスティンさんが言っています(笑)。

 まなざす観光客が一気に貶められました。


 この反転です。いや~ひっくり返りましたね(笑)

 しかしながら、なんというんでしょう。
 ブーアスティンさんにはどことなく老害感を感じてしまいます。実際、ブーアスティンさんは、後世の観光研究では、彼は理想論すぎるみたいな感じで辛辣な批判を受けているそうです。

 まあそれはそれとして、反転したこの流れからすると、続きは

「見るだけ」の観光客は薄っぺらいな~愚かだね~人間はおろかだ~

 みたいな流れを予想してしまうわけです。

しかし、この文章はそうではなかった。またしても。


それが、次。

ことはそれほど単純でもない

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


え?なになに?何か起こるの??

さらに展開します。



中盤③


「それほど単純でもない展開」を見る前に、ブーアスティンさんが好きそうな「見る」観光から「する」観光の展開を見てみましょう。

「する」観光に展開した旅行では、「体験」「交流」「学習」といったテーマがキーワードになりました。この流れは、なんとなく理解できますよね。
要は、旅行では、「見る」だけじゃなくて体験型アクティビティも流行り出したよねって話です。


そっか~、こうして、「見る」観光 → 「する」観光に展開したのね。

なるほど、めでたしめでたし……


違いました(笑)

「ことはそれほど単純でもない」のです(笑)


一体何が単純じゃないのでしょうか。

 近年、観光現象だけでなく観光研究の視座までもが更新を迫られるようになった。
 研究対象としての観光が「見る」から「する」へと変化しただけではない。そもそも観光は、はたしてほんとうに「見る」ことだったのかという根本的な問いが突きつけられている。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


おいおい、ここで「そもそも論」「根本的な問い」ですか。

なんて、ジェットコースター的アクロバット展開(笑)

おもしろすぎじゃないですか(笑)


そして、次

観光研究は、アーリのまなざし論を乗り越えるべく理論的な発展を試みてきた。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

おい、そ~いえば最初の「アーリって誰だよ」問題、全然解決してなかったじゃねえか(笑)

そうしたらここにきて「アーリのまなざし論」ってなんだよ(笑)

しかしながら、不思議なもので、もうここまで読んできていると、「アーリのまなざし論」って全然知らなくても、だいたいどんなことか、わかるような気がしてきます。

つまり、要は、中盤①の「観光者は文化的なメガネで恣意的に選別して観光地を見ているよ」。暴力的だけど、そのまなざしこそが「観光の本質」だよ。ってことを言いたいのではないかと思うのです。


ここで、私は受験生じゃないので、ズルしてチャットGPTに聞いてみました。

普通に聞いたら長いので200字にしてもらった。


「視覚を重視した体験の重要性」「観光者と観光地との間の権力構造」とあります。当たらずとも遠からずって感じです。


さて、いよいよ「ことはそれほど単純でもない」の領域に突入していきましょうか。

つまり、アーリのまなざし論を乗り越えるための理論的な発展についてです。

一体何が現れるんだ……


観光における身体性やふるまいを重視する視点を「パフォーマンス的転回」と呼ぶ

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


パフォーマンス的転回」……だと……?


なんだこのアクロバティックワードは……


「アーリのまなざし論」を乗り越えるための「パフォーマンス的転回」


ここだけ見たら、クソ面白いじゃないですか(笑)

目からビームをだす強敵に対して、「視覚に囚われるな……感じろ……五感をフルに働かせるんだ……!」と言わんばかりです。

あ、ちょっとふざけすぎか……


ということで、「パフォーマンス的転回」とは何なのかを見ます。

視覚のみならず嗅覚や聴覚、触覚、味覚など多様な感覚との連関において観光をとらえたり、観光者の身体性やしぐさ、パフォーマンスに分析の力点を傾けたりするような研究

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より

似たようなもんじゃないですか(笑)。クローズドアイの不二周助みたいなもんですね(笑)


そして、アーリのまなざし論はどうなったのか……

アーリ自身もヨーナス・ラースンの助力をえて改訂した『観光のまなざし』第三版にパフォーマンスをめぐる章を設け、観光(研究)におけるパフォーマンス概念の重要性に注意を促すにいたっている。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


 クローズドアイ(パフォーマンス的転回)の効果バツグンじゃないですか(笑)。
 アーリが自分の著書、改訂しちゃってるじゃないですか。ダメージ大です。



 もうめちゃくちゃ面白いです。

観光はもはや「見る」ことだけで説明できるほど素朴な行為ではない。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


 何ですか。この観光デスマッチ。「もはや」とか使っちゃう著者も、実はノリノリじゃないですか。


しかし、驚かないでください。このデスマッチまだ終わらないんですよ。

とはいえ、アーリとラースンは視覚でどこまで説明できるかといえば「それには限界がある」と認めつつも、「視覚が観光体験の中心にある」と食い下がる。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


アーリが食い下がってきました。まなざし論がしぶとい(笑)。

彼らにしたがえば「見る」か「する」かの二者択一は不毛なのであって、まなざしとパフォーマンスは「ともに踊る」関係なのだ。観光のまなざし論はパフォーマンス的転回によってイッソウされたのではなく、それを取り込みつつ生き長らえる。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


そして「ともに踊り」だしました(笑)

観光のまなざし論は、パフォーマンス的転回を取り込みつつ生き長らえる

そして、「ともに踊り出す

なんですか、この超展開はwww

アーリは、強ダメージを与えるパフォーマンス的転回を取り込みつつ生き長らえたわけです。セルとか魔人ブウみたいなもんです。
そして、踊り出すわけです。

第二形態のセルとか魔人ブウとかが踊り出す。めちゃくちゃ面白いです。


中盤④


さて、「ともに踊る」

人造人間17号たちを吸収したセル的な「アーリまなざし論」第二形態の超展開を拾い上げながら、フィニッシュへと向かっていきましょう。


第二形態の繰り出す技術は、何パターンかあります。例えば、


「観光者を見ない技術」と「観光者を見る技術」

例えば、海外で日本人観光客をあえて見ないふりをしたりする。せっかく海外来たんだから、日本人がいたら異国感ないし、向こうにも迷惑かけちゃうよね的な。これが「観光者を見ない技術」。つまり、あえて他の観光者を意識しないということです。

一方で、「観光者を見る技術」は、あえて他の観光者を意識するということです。
例えば「山の頂上は他の観光者がいないから価値がある」と他の観光者の排除を意識した技術(ロマン主義的まなざし)があります。
あるいは「この場所は他の観光者がいっぱいいるから価値がある」と他の観光者を取り込むことを意識した技術(集合的まなざし)があります。

なにせ、ともに踊ってるわけですからね。いろんなパターンがあるわけです。

これを、ひとこと便利な言葉でまとめているんですよ。


それは、何か?

著者は、こう言います。

ここでは他者の身体性が問題となっている。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


そう「身体性」。

これも便利な言葉ですね~。

「身体性」は、「まなざし」ではないわけですよ。まなざしに対する言葉として使いやすい。

第二形態のフィナーレにむかって「踊る」ためには、「まなざし論」に対して「パフォーマンス的転回」の方を意識しなければアカンわけです。

ここで「まなざし」ではないほう、つまり「パフォーマンス」を意識するための便利ワードが「身体性」ということになるわけです。

例として、渋谷パルコのキャッチコピーの「すれ違う人が美しい」が出てきます。

渋谷の街のすれ違う他者を「まなざしている」、舞台である渋谷という都市と主役であるたくさんの人々、その両方が合わさって都市空間を演出しているということになります。


終わらせ方


ここでポイントだと思うことをもう一つ。

観光のまなざし論は、パフォーマンス的転回を取り込んで生き長らえた。

それは、他者をまなざしている一方で、見ている私もまなざしを受けているということを意識します。


つまり、「見ている」し「見られてもいる」。

そうすることで、「相互のまなざし」という概念が出てきます。


さあ、この超展開の総仕上げです。

パフォーマンス的転回を吸収した「アーリのまなざし論」第二形態は、お互いの他者の身体性を意識して、「見ている」し「見られている」からこそ、「ともに踊る」関係となったわけです。


一つのまなざしから、ここまで煽りに煽って、予想を超える超展開。
なにこれめっちゃ面白いじゃないですか。十分に楽しませていただきました。

そして、この文章はどう終わるのか。ラストです。


観光における「見る/見られる」を考えるうえで、サファリパークは示唆的である。動物のリアルな生態に肉迫するべく人びとは車に乗り込んで特等席を確保する。動物たちは車に群がり、物欲しげに人間をまなざす。人間はふたたび動物園の檻に閉じ込められて、まなざしの対象となる。かつての万国博覧会とは違って、彼らを見ているのはもはや人間ではない。

「観光は『見る』ことである/ないーー『観光のまなざし』をめぐって」 より


ちょっと前の伏線回収した~~!!

サファリパークを車で進行する観光者は、動物の身体性にまなざしを向ける。しかし、それは、同時に車の中という檻に閉じ込められた人間が、動物たちからまなざしを向けられているということでもあるのだ。

ここで、ちょっと前の万国博覧会の「人間動物園」の回収です。
まなざしを向けている観光者は、実は見世物だと思っていた動物から、暴力的なまなざしを向けられてもいたのです。
そして、まなざしを向けてくる相手は、もはや人間ですらない……


伏線回収して、渾身の皮肉を効かせてのフィニッシュです。


いや~どうなるかと思いましたが、やってみたら、めちゃくちゃ面白かったです。
実は、問題を解いてみたことも書いてみようかと思ったんですが、長くなったので今日はこのくらいにします。

まあ、受験生は、たった1問にこんなに時間をかけることはまずないですね(笑)。あらためて合格を祈念しております。

ということで、受験生のみなさんの健闘を祈って、「今日一日を最高の一日に

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