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SNSから私を救う<私>の思想と哲学【回収編】 岩内章太郎著「<私>を取り戻す哲学」(講談社現代新書)

前回、「なぜ、スマホを見続けてしまうのか」という問いを出したうえで、
相対主義も独断主義もダメならどうしたらいいのか?」という問いに続き、そのカギになるのが、<私>の絶対性と有限性という話をしました。

今回はその回収編です。

今回の本はこれです。

※Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。


ということで


<私>の絶対性と有限性から始めてみる。


<私>の絶対性は、<私>は<私>を離れて認識することができない。
<私>の有限性は、<私>の認識は完全ではない。

というものでした。

つまり、いくら「絶対的な正しさ」があるといってみたところで、「絶対的な正しさだと、<私>が思っている」から離れることができないわけです。

そうすると「絶対的な正しさ」なんてないのか?

ここで、発想を転換します。

このなかで、一つこれは確実にいえるだろうということがあります。

それは、「絶対的な正しさがあると、<私>が確信している

ということです。

客観的な正しさがあるかどうかは完全にはわからない。なぜなら、<私>は有限だから。でも、少なくとも「絶対的な正しさだと、<私>が確信している」ことは揺るがない。なぜなら、<私>にとって<私>は絶対だから。

絶対的な正しさを<私>が認識できるかではなく、
<私>が絶対的な正しさと確信している

このように発想を転換します。

著者は、<私>の有限性と絶対性から、「客観的にみて正しいか?」については判断を保留するといいます。

これをエポケーとよんでいます。

エポケー:対象それ自体が何であるかについては判断を保留すること

このいったんの判断保留。これが、相対主義と独断主義を避けるポイントになります。

デカルトが、あらゆるものを疑って、最終的に「われ思う、ゆえにわれあり」に行きついていますが、ここでのポイントは、「われ思う、ゆえにわれあり」以外の疑わしいものはすべて判断を保留しているということにあるように思います。

判断保留の効用


判断保留は現実逃避とは違うといいます。
むしろ、着目するポイントを変えて、「対象それ自体が何であるか」から「私は、対象をどう確信しているか」に問いを変更しているといった方が良いのかもしれません。

判断を保留するとどうなるか?

セクストス・エンペイリコスは、「アタラクシア」(心の平静)を目指すために判断を保留したと言います。

「絶対にひっくり返ることのない善悪や美醜に固執する人は、まずそれが手に入らないという理由で右往左往する」と著者は言います。そして、仮に、「絶対的なよさや美しさ」を手にしたら、今度はそれを失わないことに心を奪われて、心がかき乱されることになります。

だから、「絶対的なもの」それ自体は、心の平静を阻む。

判断保留には、心の平静という効用があるといえます。


相対主義も独断主義もダメならどうしたらいいのか?


この問いに対して、<私>には有限性と絶対性があるから、「判断を保留する」と言いました。

これは、「絶対的な正しさ」それ自体ではなく、「私が何を絶対的に正しいと確信しているのか?」に問いを転換することになります。

ここで著者は、現象学的還元という言葉を説明しています。

現象学的還元:一切の対象を<私>の意識体験における確信とみなすこと

ここでやっと現象学が出てきました。

この問いの転換の発想。あーなるほどって感じです。

<私>は、一人の<私>として絶対かつ有限の世界認識を持っている。


そうすると、現象学は何を目指すのか?

<私>は、絶対かつ有限の世界認識を持っているわけですが、それは、他者についてもいえます。

他者も〈私〉と同様にその人の絶対かつ有限の世界認識を持っているわけです。

すべての<私>は認識論的に対等です。

そして、次に目指すのは、<私>の認識からスタートした、他者との共通了解と相互承認になります。

現象学は、〈私〉にとっての確信成立の条件の解明だけではなく、〈私たち〉にとっての確信成立の条件の解明を目指すのだ。言い換えれば、世界認識の正しさをめぐる信念対立を調停しつつ、〈私たち〉の共通了解を創出するために、方法的かつ自覚的に、一切を〈私〉の意識体験に還元するのが、現象学である。それは、〈私〉から出発して普遍性をつくるための方法なのである。

岩内章太郎. 〈私〉を取り戻す哲学 (講談社現代新書) (p.100). 講談社. Kindle 版.

<私>が他者が同じ確信を持っていることを確認していく作業をすることによって、いかに合意形成をしていくかが次のステップで問われていくことになります。

コミュニケーションによって私の確信は変更されるかもしれないし、他者の確信が変わっていくかもしれない、その共通了解と合意形成によって普遍認識の可能性が見えてくることになります。

<私>から出発して、普遍性を目指すのは道のりとして途方もないような気もしますが、この営みが、相対主義にも独断主義にも陥らないようにするための、一つの発想の転換ということができるのではないでしょうか。


なぜ、スマホを見続けてしまうのか


こうして<私>の絶対性と有限性からスタートして、一つの回答に行きつきました。
もちろんこの発想がすべてを解決するではないと思いますが、普段の問題の実践的な解決志向に思想的・哲学的な裏付けをするという意味で、効果的な考え方なのではないかと思っています。

<私>の絶対性と有限性。

これは、認識する<私>が不完全であることを示します。
この不完全さというのは、認識に限界があるというだけでなく、<私>自身の弱さや脆さも含みます。迷いもあります。

弱さや脆さを持った<私>の確信

なんとも心もとないのですが、ここからスタートすることでたどり着ける道があるはずです。



さて、なぜスマホを見続けているのか?という問い。

結論として、著者は、「<私>が<私>をコンテンツとして消費している/させている」といいます。

どういうことか?

SNSでは私の興味関心をコンテンツにして差し出すことをしています。
あるいは、ビックデータのアルゴリズムのほうが<私>に最適化したコンテンツをとめどなく私たちに提供しています。

これを「消費する/消費させられる」状態に私たちは陥っているわけです。

これは、悪いことだけではないはずです。情報に手軽にアクセスできることは有益だし、サイバースペース上で作られる関係性は、新たな存在可能の場でもあります。

一方で、サイバースペースには欲望を打ち止めにしない工夫が凝らされています。
結果、何が見たいのか、何が本当に必要なのかをつかめないまま延々と自己デザインと自己消費を繰り返すことになる。

このある意味<私>がスマホにコントロールされているかのようなの状態。
結果、<私>は、<私>の外側にどんどん目が行ってしまうことになる。

その解決の鍵は、<私>の内側に目を向け、<私>を取り戻すことではないかと著者は言っているように思います。

私の絶対性と有限性を自覚したうえで、弱さや脆さを持った<私>自身に目を向ける。

これは不完全だし、判断も保留しているし、自分ではコントロールできないどうしようもなさを含みます。ある意味で自分にとっては気持ちが良くない部分かもしれません。

それでも、自分の駄目さ、脆さ、不完全さを自覚したうえで、他者との相互承認を目指していく。

弱さや脆さを持った<私>の確信

そして、他者もその人の確信を持っていることを確認し、相互承認を図って、<私>の意識体験に還元することで、<私>は<私>を取り戻すことができるのではないでしょうか。


あーやっぱ、後半はむずかしかったなぁ。
本書は、もっと鮮やかに、説明していますので、気になった人は読んでみてください。

ただ、このnoteを残しておくことで、この発想がまたどこかで役に立つことがあったらいいなと思います。

そんなわけで、弱さや脆さを持った<私>を自覚して、「今日一日を最高の一日に


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