「今日の芸術」(岡本太郎著)は、最後まで読んだら、もう一回第1章だけ読みかえすといいかも
※Amazon のアソシエイトとして、この記事は適格販売により収入を得ています。
オンライン読書会でオススメされてた本を読み久しぶりに感想をかいてみました。
岡本太郎氏のことをよく知らず、「芸術は爆発だ」的な破天荒なイメージしかありませんでしたが(失礼)、単に「考えるな、感じろ」的なふわっとした感じではありませんでした。
「芸術」とは何かという問いを、ひとつひとつ積み上げるように明快に論じています。
冒頭
なんだか思わせぶりな冒頭ですが、非常にねらいがはっきりしています。
「明快」という形容がふさわしいと思います。
明快な論理は、反論可能性も残します。しかし、著者は読み手が異を唱えることを歓迎しています。単なるフィーリングではなく「論じている」。ただ強烈なことを言っているのではなく、軸がある。ゆえに、文にパワーを感じるのかもしれません。
私の勘違いかもしれませんが、章立てにも意図を感じます。
章立ては、
第1章 なぜ、芸術があるのか
第2章 わからないということ
第3章 新しいと言うことは、何か
第4章 芸術の価値転換
第5章 絵はすべての人の創るもの
第6章 われわれの土台はどうか
となっています。
おそらく、「第4章 芸術の価値転換」が全体の柱、分岐点、「不明瞭な雰囲気をひっくり返すポイント」ではないかとおもわれます。
第4章を論じるために、第1章から第3章があり、第4章の内容を展開するために、第5章、第6章がある、そんな風に見えます。
しかし、「価値転換」を語るにもかかわらず、第4章にいたる流れは自然で、第4章からの展開も自然です。ここからも明快な論理が分かります。
先入観、固定観念を取り除く(第2章、第3章)
本書は、一言で言ってしまえば、「芸術」とは何かを論じている本です。
どうやって論じているかというと「芸術ではないもの」を、ぼろくそにいっていきます(笑)。
この「ぼろくそにいう」ところが強烈なので、「芸術」の輪郭がかえってはっきりしていきます。
ぼろくそにいわれたところは、われわれが常識だと考えている部分を多分に含むので、心穏やかではありません(笑)。しかし、このあたりが強烈なメッセージと文章のパワーに繋がっているともいえます。
わからないということ(第2章)
まず、切り出したのが「わからない」です。
つまり、「わかる」の固定観念を除去(ぼろくそにいう)していきます。
まず、槍玉にあげられるのが、「符丁」です(八の字を富士山と理解する)。
これを「惰性的な実質を抜いた約束事」「封建日本の絶望的な雰囲気」などと批判します。
「わからないもの」のほうの例としては、アブストラクト(抽象芸術)とシュールレアリスム(超現実派)を上げます。
アブストラクト(抽象画)は、幾何学的な、何々だと言えないような絵です。
シュールレアリスム(超現実派)は、何が書いてあるのかは一応分かるが、常識を超えた人間本来のイメージや欲望を本質からえぐり出そうとしているため、扱い方や取り合わせに奇妙さや狂気を感じるものです。
いずれも過去の出来合いのイメージにおぶさるのではなく、新しい神話を創造せよと喚起します。
つまり、芸術は「わからないものをわかろうとすることではない」。惰性的にわかったつもりになるなと喚起します。
別の言い方をすると、芸術創造は、わかったつもりでいてもつねにその先へと突き進んでいきます。
創造と鑑賞のおいかけっこ、その驀進のなかに芸術と鑑賞の価値があると著者は言います。
著者は、芸術の歴史的な時間の流れ、移り変わりを丁寧に踏まえています。
この時間軸の意識が、あとにも効いてきます。
新しいということ(第3章)
第2章で時間的歴史的視点を得たところから、次に「新しい」ことを論じるのは、とても自然な流れです。
つまり、次に「新しくないもの(古いもの)」の固定観念を除去しよう(ぼろくそに言おう)とします。
過去と現在(未来)、古い権威と新しい脅威、老人と若い世代を対比し、古いものを批判します。
そして、文化における新旧の無慈悲な対立(ちょっと怖い…)こそ、歴史を進め動かしてきたと述べます。
上記対比を踏まえた「新しさ」についての著者の結論が、「芸術は絶対に新しくなければならない」というのは、やはりとても自然な流れです。
また、「流行」についても述べています。
「流行」については、頭から否定するというよりはそのとらえ方に著者の論の特徴があると思います。
すなわち、「どうせ移っていくものだからとバカにして、否定的に歴史を引き戻す」のではなく、「流行をつねに乗り越えて、もっと新しいモノをつくるという意味で移りかわる」ととらえます。
これは、著者の立場から導かれる「流行」のとらえ方としてやはり明快です。
アバンギャルドとモダニズム
著者によると、アバンギャルド(前衛)とは、独自に先端的な課題を作り上げ前進していく芸術家となります。
一方、モダニズム(近代主義)は、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般に喜ばれるものとなります。
おそらく、著者は「芸術」とはアヴァンギャルドであり、モダニズムは「真に芸術とはいえないもの」と整理しているととらえていいと思います(ただし、モダニズムの役割を否定はしない)。
対比がはっきりして、徐々に「芸術」の輪郭がはっきりしていきます。
著者は、アヴァンギャルドに激しい生命力を感じています。
一方で、モダニズムの役割を否定しませんが、モダニズムを真の「芸術」だと早のみこみしないよう注意喚起します。
モダニズムは芸術ではないと断じているのかまでは判断がつかなかったのですが、すくなくとも著者が真の芸術だと捉えているのは、「アヴァンギャルド」ということなのでしょう。
芸術の価値転換(第4章)
そして、帯にもなっている一節です。
予備知識なしでこの一節だけ見ると、常識に反するようにも見えます。しかし、第3章までの固定観念の除去を踏まえると、自然な帰結です。第4章を読む前に価値転換に結ぶ展開を丁寧に積み上げているといえます。
つまり、芸術が「わからない」「あたらしい」「アヴァンギャルドな」「ぶつかり」であるとすれば、そこに一種の不快感「いやったらしさ」が表れるのも、納得であり、明快です。
さて、「うまいこと」「きれいであること」「ここちよいこと」が芸術の絶対条件ではないのであれば、一部の上手い人だけではなく「誰でも」芸術を創造できるのではないかという気がしてきます。
それを踏まえた次の第5章。
ここも、自然で明快な論理展開です。
絵はすべての人の創るもの(第5章)
特権階級から一般へ
第5章において、芸術が一部の人ではなく、すべての人が成せるものであることが説明されます。
ここで、筆者は、芸術が一般に広がった歴史的経緯、つまり、かつては、芸術が少数の特権階級の独占物であったが、その後広く一般に広がった経緯を説明します。これは、18世紀後半の市民革命、産業革命を経た民主主義社会の誕生と連動します。
筆者は、「一定の社会には、それに即応した芸術形式があること」を確認します。しかし、歴史的な時代の歩み、社会的条件とそれを満たす芸術は、時代が一致して進むものではなく、文化的なものは実生活的なものよりも遅れているともいいます。
決して絵が上手であったわけではないセザンヌが近代芸術の創造者の一人となり得たこと、その一方で歴史的社会的条件のズレにより生じた悲劇は、ここで紹介されます。
18世紀後半以降の近代化、民主化に伴う解放が、芸術においても一般化、自由化につながったというのは、歴史的社会的経緯と「芸術」の連動であり、「あたらしく」「わからない」領域の世界です。
そして20世紀。著者のいう芸術革命に伴い芸術が「誰でも作れるものになった」と展開していきます。
すべての人が描かなければならない
筆者は、さらに「誰でもが作れるようになった」から進んで、「すべての人が描かなければならない」と主張します。
このあたりらへんから、ファイティングスピリットやパワーを感じますので、是非本文を読んでください(笑)。
おそらく芸術に対する過去から現在まで話から、現在から未来への芸術への話が展開し、読み手を啓蒙しようとする思いがより強いからパワー(圧)が感じられるのではないかと思います。
われわれの土台はどうか(第6章)
伝統をどう捉えるか
第6章は少し補助線があります。
第5章までで、芸術に対する固定観念の除去と世界性の一般・自由への広がりに伴う開かれた世界の話へと展開しますが、第6章は日本人の文化に焦点を当てます。
日常の環境は狭い世界です。前章までとは別の視点です。開かれた世界とは矛盾するようにも見えます。
しかし、「その矛盾の上にたち両極を同時につかみ取るのでなければ、これからの本当の芸術はなりたたない」と筆者は述べます。
つまり、日常の環境、狭い世界は土台として必要と述べており、放棄せず開かれた世界と同時につかみ取らなければなりません。その矛盾を乗り越えることを著者は求めています。
この著者の「伝統」に対する考え方・とらえ方は、「流行」のところと似ているかもしれません。
つまり、「伝統」や「流行」は、それそのものを批判していると言うよりは、あくまでも突破する乗り越える対象としてとらえていると考えられます。
その存在に迎合せず、正面から捉えて、乗り越えて、新しいものにしていく対象として位置づけているものと考えられます。
芸術と芸ごと
第6章でも、筆者は、「芸術ではないもの」との対比をすることによって、「芸術」の輪郭を明確にしていきます。
ここで上げられているのが「芸ごと」です。
いずれも究極を目指すものですが、正反対です。
きれいなもの、上手なものは見習い、覚えることができるが、人間精神の根元からふきあがる感動は、習い覚えるものではないというところです。
繰り返しですが、著者は「芸術」と「芸術ではないもの」と明確に区別することを強調しており、安易に混同する人々を嘆いています。
このようにキーワードはいくつかありますが、著者は、一貫して、「芸術ではないもの」を「芸術」と対比して、時に辛辣に語ることで「芸術」の輪郭をはっきりとさせていきます。
文章の運びは、ストレートでとても清々しいです。
芸術はつらそう?(第?章)
さて、「芸術」の意味がだいぶわかって、いったん読み終わったところで、じゃあ「芸術」をやっていきたいかといわれると、正直、悩みます(笑)
なにせ、「ここちよくない」「なまなましい」「いやったらしい」ものですからね(笑)。
既存の権威とぶつかりあい、ゆきずまって、絶望して乗り越えていくことは並大抵のメンタルではないと思います。
著者は、そういったおそろしいものだと分かっていながら、すべての人に芸術をしなければならないと焚きつけるのですから恐ろしいです(笑)
ぶっちゃけ、モダニズムのようなここちいいところ、安心するところにずっといたいとそのまま心穏やかに終わりたいと考える人も多いのではないでしょうか(?)。
本書は、最後に「猛烈な超近代的意識をもって間違った伝統意識を切り捨て、自分たちの責任において新しい文化を創り上げていかなければならない」と結び読者を焚きつけて終わります。
新しい文化を創り上げていかなければならない気概は分かったのだけれども、なんでそこまでつらい思いをして「芸術」を求めていかなければならないだっけ・・・
そう思ったら、第1章だけもう一度読み直してみるといいかもしれません。
私は、(最初に読んだはずなのに)印象が少し変わり、著者のねらいがより鮮明に伝わってきたような気がしました。歓喜。
※ 本書については、浜松オンライン読書会様での読書会に示唆をいただきました!ありがとうございました!