「読書論」(小泉信三著、岩波文庫)
ある本について、結論が普通だし、当たり前のことしか言っていないからという理由で、それを読まないというのはもったいないというときがある。
本書の著者である小泉信三(1888~1966)は、明治~昭和にかけての経済学者で、慶應義塾の学長を務めた方でもある。
「結論が普通だし、当たり前のことしかいっていない、だからといって読まないのはもったいない」とはどういうことか?
その一見当たり前の結論は、どうして書かれたのか?どうやって書かれたのか?あるいは誰が書いたのか?それによって、結論が奇をてらったものではないとしても、その内容は、重みと深みを増し、解釈と創造の幅を広げてくれるはずである。
では、本書に書かれている「読書論」。書かれている内容が、普通で当たり前のことなのだとしたら、本書を読む価値は一体どこにあるのか。
例えば、こういった側面からみてみたらどうだろう?
本書は、福沢諭吉や、夏目漱石や森鴎外といった明治時代の文豪たちの文献を当時ほぼリアルタイムで読んだ体験をもとに「読書論」を書いているのである。
読んでみないともったいない気がしてきませんか(笑)
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どんな本をどう読むか
著者は、古典的名著を読むことを勧める。
それぞれの分野において、流行浮き沈みを超越した標準的著作を読むことを勧める。
しかし、人は意外に古典的名著を読まない。
著者は、古典的名著が人にある畏怖の念を抱かせ、圧迫を感じさせるからではなかろうかという。
あーわかる。名著には畏怖がある。なかなか読めない。
本書でよく引用される部分を引用します。
この論旨の引き合いに、福沢諭吉の「学問のすゝめ」「文明論之概略」あるいは「福翁自伝」、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の一場面が出てくる。
著者は、難解の書と称せられるものは必ずしも難解でない。恐れずに再読三読すれば、意外によく解るという。古典的名著に対する故なき畏怖を去ることは、読書論の第一に力説しなければならないところと著者は言う。
読んだ本を自分のものにするにはどうするか
これも、当たり前っちゃあ当たり前である。
しかし、その引き合いのエピソードがこれ。
これを引き合いに、本を読んだら読みっぱなしにしないで、少なくとも大切な本は、「読んだことについて何か書いておこう」とこれまたよく言われる当たり前のことをいう。しかし、重みが違う(笑)
本を読むだけではだめ
ここでも鴎外の小品文の「名を知って物を知らぬ片羽」が引き合いに出される。
読書とともに如何に観察し、思考するか。
著者は、福沢諭吉は、優れた観察力をもっていた。また、読みかつ考える読書家の最も立派な一例は漱石だろうという。
これらを模範にせよという。
もう何も言えない(笑)
文章論
本書は、第8章で文章論にも触れている。
結論は、一言で言ってしまうのであれば
ここも当たり前だからと言って読まないのはもったいないような気がする。
ここでも福沢、鴎外、漱石が引き合いに出される。
どう料理して、「ちゃんと推敲しよう」なのか、そこがこの本の面白いところなんじゃないかと思う。
ホントにすぐには役にたたねえなぁ(笑)
第9章、第10章はちょっとかわいい
読書論、文章論ぽいのは8章までで、そのあとはコラムっぽい。
第9章とか、要は、理想の書斎がほしいということを言っている(笑)
後半はエピソードを楽しむ感じではないかと思う。
本書は、一見「読んでいない本について堂々と語る方法」とは真逆のことが書いてあるように思える。
一方は「本を読んでいない方がいい」という本であり、もう一方は「本をちゃんと読んだ方がいい」という本である(笑)。
しかし、私は、両者は共通していると思う。
いずれも「本」を通して、私たちは、何を学び、何を観察し、何を考え、何を創造したらいいのかを論じている。
いずれにも共通するのは、本に対する「故なき畏怖を去る」こと。
違う点は、本を読んだ方がいいのか、読まない方がいいのかという点だけである(笑)。
誰にも創造の世界は開かれている。
そんな本を通したコミュニケーションの可能性をまた違う視点から取り入れて、また次の本を読んでみよう。まあ、私には、古典的名著はどうしてもなかなか読むのが大変なんですけどね(笑)
そんなわけで「今日一日を最高の一日に」