液状化する日々【掌編小説】
目が覚めたら謎に筋肉痛で、腕と足が痛かった。ついでに頭も痛い。これは二日酔いだ。
起き上がってベッドに座って筋肉痛の原因を考えて、すぐに思い出す。そうだ、昨日はバッティングセンターに行ったのだ。
昨夜は、マッチングアプリで知り合った男の子と飲みに行く予定だった。でも待ち合わせの駅に行ったらいなくて、
「ごめん、ちょっと遅れそうだから、ここまで来てくれる?」
って、地図が送られてきた。
建物の名前をググったら普通にマンションで、普通に引いちゃって、
「やっぱ帰るね」って送ったけど、そのまま帰るのが嫌で一駅先の新宿まで歩くことにした。
夜の顔になった街の中をぶらぶら歩いてたらバッティングセンターの文字が見えて、迷わず入った。
バッティングセンターには、時々行きたくなる。ぜんぜん打てないけど、たまに当たって遠くに飛ぶと嬉しいし楽しい。「わたし今、ストレス発散してます!」ってかんじがするのも、露出狂みたいで楽しい。
金曜の夜だけどわりと空いてて、球速の遅いブースには誰もいなかった。両替機で千円札を崩して、[80km]が掲げてある金網の扉をくぐる。
300円を入れて、打席に立つ。前の人が低い球を打つ練習をしていたのか(80kmで?)、めちゃくちゃ低い位置にボールが飛んでくる。
調整しようと思って機械の方を振り向いたら、金網にかじりついて私を見ているおじさんと目が合った。順番待ちなのかもしれないけど、正直怖い。
気にしていないふりをして[高く]ボタンを3回押す。打席に戻る。
ロングスカートでバットを振り回す。けっこう当たるけど、あまり前に飛ばない。空振ると、その勢いで一回転しちゃう。でも時々綺麗に打ち返せる時があって、やっぱり嬉しいし楽しい。
25球があっという間に終わって、振り返る。おじさんはいなくなってる。他に待ってる人がいないか確認して、もう一回300円を入れる。
75球打って、外に出る。歌舞伎町の歌舞伎町たる空気。スマホを見たら、新着メッセージの通知が18件。全部アプリの男の子から。初めはご機嫌取りだったのが段々罵詈雑言に変わっていくのをざっと流し見して、ブロックする。
この子、絶対ホスト系だよなーと思う。こっちは遊びたくてマッチングアプリやってるのに、仕事をしに来られたらたまんない。というか、住んでる場所を晒しておいて、こんなに乱暴な言葉を送り付けられるってある意味羨ましい。怖いものがなさそうで、いいなあと思う。
それから、コンビニで買い込んだ缶チューハイを飲みながら、意味もなく遠回りして、へとへとになるまで歩いて帰った。
そりゃあ、筋肉痛にもなります。ひとりで頷いて立ち上がる。
喉が渇いたなって思って、冷蔵庫を開けた。私の冷蔵庫には、缶ビールとミネラルウォーターと、最後に使ったのがいつなのかわからない調味料、あとはマニキュアしか入ってない。缶ビールを手に取ってプルタブを起こす。カシュ、ってきもちいい音がする。
一口飲んで、そういえば二日酔いだった、と思う。でも美味しいからいっか。美味しいってことは、ぜんぜん平気ってことだ。
冷蔵庫の前にしゃがんだまま、しばらくビールを飲む。
扉を閉めないと、と思って手をかけた瞬間に、チルド室の隅にある緑色が目に入った。
野菜なんていつ買ったっけ。と思いながら引き出しを開けてみると、かつてほうれん草だったものが袋の中で溶けていた。
ほうれん草って腐ると液体になるんだなあと感心しながら、袋の端っこをつまんで取り出す。
ほうれん草だったものを可燃ごみの袋に入れて、冷蔵庫の扉を閉める。
そのまま床に座り込んで、それで、思い出した。
いつだったかは忘れちゃったけど、元ほうれん草は近所のスーパーで買ったものだ。おひたし食べたいな、とか思って、手前に置いてあったのをカゴに入れて、レジに持って行った。
そうしたら、レジのおばさんが、「お姉ちゃん、こんなのダメよ」と言って、私が選んだほうれん草を持ってレジを出て行ったのだ。私はそれを、ただぼうっとして見ていた。
新しいほうれん草を持ってレジに戻ってきたおばさんが、ほうれん草の選び方について色々教えてくれたけど、一個も覚えてない。
そーなんですねーありがとうございますー、とか、言ったような気はする。
それで、帰ってきて冷蔵庫に入れて、そのまま忘れていて、ほうれん草は液体になった。
野菜の選び方をちっとも知らないまま、私は大人になってしまいました。
これからも、野菜の選び方を知らないまま生きていくのだと思います。
冷蔵庫の扉にマグネットのフックでかけてあるカレンダーが、4月のままだ。
カレンダーをめくって5月にして、残りのビールを飲み干す。空いた缶をシンクに投げ入れて立ち上がると、財布をポケットにねじ込んだ。
そうして私は、ほうれん草を買いに出かけるのです。