熱血教師を呪う教室の底辺で
自作の自由律俳句を表題に短編を書く。
十四作目。約5000字。
「熱血教師を呪う教室の底辺で」
リコーダーがない。
机の中の左端、お道具箱の横の定位置には、リコーダーと同じ幅の不自然な空洞が出来ていた。
確か今日は午後、音楽の授業でリコーダーを使うはず。嫌な予感とともに、おなかと胸の真ん中のあたりがすぅっと冷たくなる。
平気なふりをしてお道具箱を取り出したりランドセルの中を確認したりしたけれど、やっぱり見つからない。教室の後方にあるロッカーに向かい、自分のロッカーと、誰も使っていない空きロッカーの中身を確認していたら、教室の出入り口付近で固まっていた女子の輪から甲高い笑い声が響いた。
「ちょっとぉ、聞こえちゃうよ~」
「ムリ、我慢できなーい」
「必死じゃん、ウケるんだけど」
クスクス笑う声と教室中に響く会話が、背中に突き刺さる。顔が熱くなって、全身に汗がにじむのを感じながら『あぁ、やっぱりか』と思う。静かに深呼吸してからゆっくり自分の席に戻ると文庫本を取り出し、文字に意識を集中させた。
「うわ、でたよ」
「もうやめちゃったの、つまんないね」
「いつも本読んでるの、なんかのアピールなのかな?」
「文学少女的な?」
「うわー、イタいわぁ」
「ねぇ、なんかあいつ顔赤くなってない?キモいんだけど」
ばれないように、静かに深呼吸をする。聞こえないふり、気づいていないふりに無理があることなんて分かっているけれど、反応したら『負け』だ。無表情で、ページをめくる。顔が赤くなるのだけはどうしようもなくて、悔しい。
◇
お父さんの転勤で、4年生の春に転校したのは1学年30名ほどの小さな学校だった。同級生のみんなは保育園からずっと同じメンバーで、小学校を卒業したらそのまま一緒に中学校に入学する。町の子供は全員その学校に通っていて、みんながお互いの家族のことまで知り尽くしているとても狭い世界だった。
転校生の私はとても珍しい存在だったみたいで、転校したての頃はみんなが私のところに集まってきて、いろんな話をした。新しい学校でわからないことだらけの私に色々教えてくれて、すぐに仲良しの友達も出来た。放課後、近所の子と道草しながら一緒に帰ったり、休みの日にお互いの家を行き来して遊ぶ友達もいた。私は、自分もすっかり町の子供になったような気持ちになっていた。
平和だった学校生活がおかしくなったのは、5年生の終わりの頃からだった。何がきっかけだったのか私にはわからないのだけれど、ある日突然、みんなに無視されるようになった。
おはようってあいさつしても、返事がない。話しかけようとして近づくと、急いでどこかに行ってしまう。誰も私の方を見ないし、うっかり目が合うと慌ててそらされる。透明人間になった気分だった。
びっくりして、理由を考えたけれど全然わからない。我慢していれば収まるかもしれないと思って、誰にも話しかけずに一人でいればいるほど、みんなは私のことが見えなくなっていくみたいだった。
6年生になってから、私は透明人間からバイ菌に変わった。宿題の提出で私のドリルやノートに触った子が、悲鳴を上げて手を洗いに走っていく。授業で席の移動があると、私が座った席の子が「綺麗にしないと座れない」と言いながら机と椅子を何度もティッシュでふく。
誰とも目を合わせず、口もきかず、休み時間はずっと本を読んで過ごした。授業で「二人組みになって」とか「自由にグループを作って」と言われると、おなかが痛くなった。「余った人」と呼ばれるまで、うつむいたまま息を殺してじっと耐えるしかない。
辛くて辛くて、家に帰ると毎日お母さんに泣きついた。お母さんはいつも私の話を聞いてくれて、一緒に怒って、泣いてくれた。
でも、学校を休みたい、というお願いだけは、絶対に許してくれなかった。休むのは『逃げ』で、逃げたら『負け』だから。負けたらダメ。戦って、勝たないといけない。「逃げたら負け」と繰り返すお母さんを見るたび、私と一緒に戦ってくれているんだなと思った。
それでもやっぱり学校には行きたくない。ぐずぐず泣き続けていると、お母さんは目を吊り上げて「じゃあお父さんに言ってみなさい」と言う。
お父さんは怖くて、私は自分がいじわるされていることすら話せなかった。ましてや学校に行きたくない、休みたいなんて、絶対に言い出せない。
だから私は、毎日学校に通い続けている。
◇
リコーダーが見つからないまま、音楽の時間になってしまった。教室に入って来た先生にかけよって、リコーダーを忘れてしまいました、と小声で伝える。背後からクスクス笑う声が聞こえるのは、きっと気のせいだ。みんな、先生に見つからないようにいじわるするのがとても上手だから。
「仕方ないから、今日は見学してなさい。次からは忘れないように。」
先生に言われて、私は忘れてしまったことを謝り自分の席に戻る。
リコーダーの合奏の練習が続く授業を、教科書の一点をひたすらに見つめてやりすごした。
ようやく放課後になり、私は一度校舎を出て学校の周りをゆっくり一周したあと、教室に戻った。誰もいないことを確認して、リコーダーを探す。
今までも、上履きが使われていない下駄箱の隅に移動されていたり、体操着を入れていたバッグがベランダに転がっていたりしたことはあった。
みんな、いじわるなことはするけど、壊したり捨てたりする度胸はないのだ。だからきっと今回も、どこかに隠しただけ。そう自分に言い聞かせて、捜索を始めた。
教室中をくまなく探したけれど、なかなか見つからない。半泣きになったところで、教室の隅に置いてあるストーブが目に入った。あそこはまだ見ていない。床に這いつくばって裏側をのぞき込むと、ストーブと壁の隙間に挟まっているリコーダーが見えた。
急いで引っ張りだして、ケースについた埃をはらう。中身を確認すると、やっぱり無事だった。
壊されていないことにほっとした瞬間、教室のドアが開く音が響いて一気に身体が硬直した。おそるおそる振り返ると、教室に入って来た担任の先生と目が合う。
「伊藤?なにしてるんだ?」
急な問いかけに、声が出ない。床に座りこんでリコーダーを握りしめている私を見て、先生がズンズンこちらに近づいてくる。
6年生になって担任になった男の先生が、私は大嫌いだった。四角い顔で、声が大きくて、「仲間」「思いやり」という言葉が大好きな先生。クラスの中心グループ、つまり私にいじわるするようにみんなに指示している子たちに好かれていて、いつも楽しそうに笑っている。
私のことをただ大人しい、内気な子供だと思っていて、授業中に「もっと積極的に動け」「声が小さい」と何度も言われる。
そのたびに笑いが起きるのを、先生は自分が笑わせているんだと思っている。私が笑われていることに、全然気がついていない。
先生が隣に来てしまったので、リコーダーを袋に戻して立ち上がった。
「リコーダーか?それ、どうしたんだ。」
「・・・家に忘れたと思ったんですけど、探したら落ちてました。」
「落ちてたってどこに。」
どうしよう。なんて言えばごまかせるんだろう。考えても、頭が真っ白になっていて、なにも思いつかない。しかたなく本当のことを話す。
「あの、ストーブのところです。」
「こんな時間に、一人で探してたのか。」
「はい」
「伊藤、それは、お前が落としたのか?」
「・・・はい」
「ストーブのところに?そんなところにリコーダーを落として、なくしたのか?」
「・・・はい」
逃げ出したい気持ちになる。もうこれ以上聞かないでほしいのに、腕組みをして怖い顔になった先生は、質問をやめてくれなかった。
「伊藤、お前、いじめられてるのか。」
「・・・ちがいます。」
「誰かに隠されたんだろう。悩みがあるなら、先生に話してみなさい。」
『いじめ』という言葉で、我慢できなくなった。これ以上ここにいたら、泣いてしまう。一生懸命涙をこらえて、先生の好きな、大きな声を出した。
「ちがいます、いじめられてないです、私が落としたんです」
先生が、ちょっとびっくりした顔で私を見る。涙がこぼれそうだった私はリコーダーを握り締めたまま、床に置いていたランドセルを抱えて教室から飛び出した。
◇
翌日は、今までで一番学校に行くのが嫌だった。家を出る前に、お母さんに「行きたくない」と言ってみたけれど、やっぱり休ませてはもらえない。
ウソじゃなく本当におなかが痛かったけれど、我慢して学校に向かった。負けないために。
朝の会の終わりに先生が、1時間目の体育を中止して話し合いの時間にすると発表した。よりによって、みんなが楽しみにしている体育の時間。きっと昨日のことだと確信すると同時に、おなかの痛みが強くなって、吐き気がした。
みんなが口々に文句を言う中で『話し合いの時間』は始まった。先生が、いつもの大きな声で話し出す。
「このクラスは、みんな、仲間だよな。仲間のことをいじめたり、嫌がることをするような奴は、このクラスにはいないよな。」
先生の言葉に、ざわついていた教室がシンと静まり返った。
「そんな奴はいないって、先生、信じていいよな。」
先生が、教室中を見回す。やめてほしいと必死に目で訴えてみたけれど、伝わるわけはなかった。
「昨日の放課後、伊藤が一人でリコーダーを探していた。どこにあったと思う?・・・ストーブの裏だ。」
前の席の何人かが、私の方を振り返る。私は黙ってうつむくしかなかった。
「伊藤は自分が落としたと言っていたが、落としたものが勝手にストーブの裏まで歩いていくとは、先生は思えない。みんなはどうだ?誰か、心当たりがある奴はいないか?」
誰も何も言わない。あたりまえだけど。
「もし、もしも、この中に伊藤のリコーダーを隠した奴がいるなら、今ここで名乗り出ろ。いいか、仲間をいじめるようなことは、絶対に許されない。でも正直に名乗り出て、伊藤に謝って、きちんと話し合えば、絶対に分かり合える。先生は、このクラスみんなのことを信じているんだ。わかるな?」
一言一言区切りながら大声で話す先生は、興奮していて、楽しそうにさえ見えた。私の悪口を大声で話す女子たちと同じ。
「心当たりがある奴、いないのか?これは最後のチャンスだ。ここで黙っていたら、仲間を裏切った、卑怯者のまま、ずっと生きていくことになるんだぞ。」
変わらず静まったままの教室が、不穏な空気でいっぱいになっていく。おなかが痛くて、気持ち悪くて、息が苦しい。
「よし、わかった。それじゃあ、全員、目を閉じて机に伏せろ。いいから、伏せろ!」
思うように『話し合い』が進まず、先生が怒鳴った。みんながのろのろとした動きで机に伏せる。仕方なく私もそれにならって、両腕に顔をうずめた。
教室の中を歩き回る気配と一緒に、先生の声が近づいたり遠ざかったりする。
「これで、誰がやったのかは先生にしかわからない。正直に手を上げてくれたら、先生は誰にも言わない。約束する。いいか、本当にこれが最後のチャンスだぞ。・・・伊藤をいじめていた奴は、手を上げろ。」
ごそごそと身動きをする音が聞こえたけれど、手を上げる子がいるとは思えなかった。
「伊藤のリコーダーを隠した奴、手を上げろ。」
先生の足音だけが、教室に響く。
「伊藤のリコーダーについて、何か知ってる奴、手を上げろ。」
ほら、やっぱり。こんなことをして、手を上げる子がいるわけない。先生はきっと昔のドラマの見すぎなんだと、他人事みたいに考えた。
「・・・全員、顔を上げろ。」
みんなが身体を起こす気配がしたけれど、本当に気持ち悪くてほとんど吐きそうになっていた私は顔を上げられなかった。
「伊藤、顔を上げろ。・・・お前から直接、みんなに話をしなさい。」
先生の言葉に、私は無理やり顔を上げて、立ち上がって言った。
「気持ち悪いので保健室に行ってきます。」
◇
教室を出て、保健室には向かわずそのまま校舎から出た私は、通学路とは反対方向に向かって歩き出した。
早歩きでどんどん歩く。涙で前が見えないけど、止まらずに歩く。
どんなに頑張って歩いても、町からは出られないし、私は今日も家に帰るしかない。そして明日はまた、学校に行かなきゃいけない。
わかっていた。わかっていたけど、そんなことわかってる、と思った途端に身体が勝手に走り出した。泣きながら、全力疾走で学校から遠ざかる。
早く大人になりたい。大人になって、こんなところからは出て行くんだ。
クラスのみんなも、先生も、大嫌い。
お父さんもお母さんも、学校に行けって言う人は全員、大嫌い。
大人になればきっと、大嫌いな人から逃げ出せる。
『負け』でもいい。逃げられるなら、負けでいい。
急いで大人になるために、私は走り続けた。