見出し画像

『春、出逢い』中の短歌を鑑賞してみる (1)

宮田愛萌著『春、出逢い』が刊行された。
今作は文芸部を舞台に、短歌甲子園出場を目指す高校生の青春小説である。

作中に出てくる登場人物たちが作った歌はほぼ全て愛萌さんが詠んでいるとのこと。

せっかくなので、作中歌を全て解釈してみようと考えたが、歌の中には試しに作ってみた、といった体のものも存在するので、まずは源氏物語の作中歌よろしく会話文や地の文と結び付けて鑑賞することができる歌から取り扱いたいと思う。

今回は第一章「春、出逢い」に登場するこちらの一首。

知らない春はさみしいと人は言うだから春には出会いがあるの

宮田愛萌『春、出逢い』, p. 39

こちらは文芸部部長である吉徳紅乃が初めて文芸部の部員たちと歌会をした際に詠んだ一首である。

上の句「知らない春はさみしいと人は言う」であるが、春という始まりの季節に伴う未来の不確かさを「知らない春」と表している。しかし、そのような先の見えなさに対して、紅乃は「ワクワク感」や「不安を感じる」といったありがちな表現は用いず、「さみしい」と表現している。
さみしいとは、どこか物足りない様子や満たされていない様子を表すが、
紅乃は一体何に物足りなさを感じていたのだろうか
。本文中にその「満たされなさ」が直接的に描写されることはない(誰か見つけたら教えてください)。強いて挙げるなら、物語冒頭、廃部の危機を避けるために文芸部の部員集めを行っている状況そのものに対して、紅乃が満たされなさを感じていたということはあり得る。

しかし、ここはむしろ満たされた状況の方から逆算的に解釈する方が良い。

春は出会いの季節と言われているが、本当にそうならば今すぐ出会いをください。

宮田愛萌『春、出逢い』, p. 5

と神に祈るような気持ちで部活勧誘会に臨む紅乃の願いに呼応するように、新一年生の楢崎佑太朗、藤田いづみ、椋聖陽が入部する。
また、顧問の河津先生から提案されたことにより短歌甲子園出場を目指すことになるが、このことにより部内での歌会や短歌の勉強会が始まる。紅乃は楢崎との短歌に関する会話をする中で、

こういう会話をする日が来るとも、したいとも思ってこなかった私にとってどれもが新鮮で、出会いだった。

宮田愛萌『春、出逢い』, p. 39

と、文芸部で新たに始まった活動を楽しんでいる。
そして、下の句(四句と五句)「春には出会いがあるの」は、これらのような紅乃自身が直面した新たな状況やそれに対する心情を表したものとして解釈できる。

さて、様々な新しい出会いによって紅乃の文芸を巡る状況は劇的に「満ち足りた」ものとなっていく。これに対比するように、廃部寸前の部を存続させることに頭を悩ますだけだった状況は、彼女にとっては満ち足りていない「さみしい」ものであったと解釈されうる。ただし、この「さみしさ」は前述の通り直接的に描写されることはないため、必ずしも紅乃自身が普段からそのような不満を明確にかつ強く持っていたとは考えにくい
さらに表現上の工夫について着目しても同様で、上の句と下の句が「だから」で結ばれていることに注目したい。つまり、下の句で示される「出会い」をもたらすためには、上の句で示される「さみしさ」が必要なのである。このことからも紅乃は今までの状況そのものに対してそこまで悪いイメージを持っていなかったのであろう。

まとめると、本歌は、
今後、文芸部が存続できるかどうかすらわからず、その危機を回避することだけに頭を悩ますだけであった状況に漠然とした物足りなさを感じていた紅乃が、新たな人間や状況との邂逅により急激に日々が彩りを増した心情を反映していると解釈できる。

なお、空井赤那との邂逅はこの歌よりも後の出来事であるが、この歌を第一章全体を代表する歌と考えれば、朱那との邂逅もこの歌が取り扱う範囲としてもよい。

この調子で書いていくと最後まで到達するのはいつになるんだろう…


※ここは思いついたら後日追記
本作および第一章のタイトルは「春、出逢い」と「逢」の字が用いられるが、本歌は「出会い」と「会」の字が用いられている。
違いは何だろう…


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集