【吃音】「言葉のつっかえ方」は心の状態で変わる
やあ、どうも。
吃音をテーマにした記事は久しぶりですね。
わたしがこれまで生きてきた中で、おそらくいちばん真剣に向き合ってきたしつらい思いをしてきた個人的な要素だからなのか、吃音の記事を書くときは他の記事とはくらべものにならないほどのエネルギーを使う。
それに、HSPやわたし独自の人生観とか死生観とは違って、これ以上変化がないものだから(こう表現すると障害みたいだけど)、これといって取り上げることもないんだよね。
と、つい最近まで思っていたんです。
なんかね、最近、言葉のつっかえ方が変わったのよ。
この記事を見つけてくださったみなさまは、身近にそういう方がいらっしゃったりして、吃音についての基本的な知識はお持ちだと思います。
なので、つっかえ方の種類とかの説明は割愛します。わたしもできることなら直視したくないからね。
で。
これまでのわたしは、特定の文字(たとえば「ア行」「イ段」「エ段」とか)から始まる言葉を話すときには特に言葉がつっかえていた。「言葉が出にくい」ってカンジでしょうか。
でもここ最近のわたしは、苦手でもなかった文字を頭で何度も繰り返すカタチで言葉をつっかえる場面が多くなっている。
個人的な経験的にはね、「言葉が出にくい」っていうのは工夫次第で回避できるんですよ。音にする前にわかるというか。
だから、出やすい言葉に言い換えることで回避できる。
でも、言葉を繰り返すタイプは回避が難しい。
音にはできるから口から出てくるんだけど、「か、か、か……」みたいに文章が続かないみたいな。
いままでそういうつっかえ方をあんまりしてこなかったから、ちょっと驚いている。
毎度のごとく、変化の原因を分析・考察してみたところ、そこには心の状態が関わっていそうなことがわかったのだ。
吃音がひどくなったのは社会人になってから。
これも、ある種の心の状態変化と言えるのではなかろうか。いや、言えるだろう。たぶん。
けっこうつらいめにも遭ってたし。
当然、学生時代も友だちとの会話の中で盛大にどもることもあった。
それでも友だちとの会話を楽しめていたのだから、よい環境、よい人間関係だったのだと思う。
というかね、福祉を学ぶ学科の人間なわけだから、そこらへん指摘しないよね。ふつうはね。
で。
社会人になってからは、苦手な文字が極端につっかえるようになった。
利用者やら道具やらの名前を、すっと言えなくなってしまった。
陰で笑われているのも知っていたし、つっかえないようにと意気込めば意気込むほど言葉はうまく出てこない。最悪のスパイラル。
学生時代とは違うベクトルのプレッシャーに晒されて、言葉のつっかえ方が明らかに変わっていた。
安心できる環境から、一気にいつ狩られてもおかしくない環境へ。
もともと環境の変化に弱いわたしは、社会人になってからの急激な変化で、吃音がひどくなっていったのだ。
なんというか、感受性が豊かな子どもみたいで恥ずかしいヨ。
実際そうだったし余計にね。
さて。
「最近は言葉を繰り返してしまうようになった」とお話しましたね。
それも、たぶんなんらかの心の変化だと思うんだよ。
原因は何だろうな、とぬらぬら考えながら毎日を過ごしているとあるひとつのちょっとした変化に心あたりが出てきた。
それは、職場の人間から食事に誘われたこと。
一般的な社交性を持つみなさまからしたら「はぁ? そんなのありふれたイベントじゃん」と思うんだろうけど、わたしにしたらちょっとした事件だった。
わたしは人間嫌いを自称しているし、noteでもさんざん「職場の人間」の悪口を書いてきたし、なんなら心のどこかで彼ら彼女らを見下しているきらいすらある。
わたしのポンコツのせいとはいえつらいめにも遭ってきたし「絶対にこいつらとは相容れるものか」と胸に誓ってお仕事を続けてきた。
言葉にこそしてこなかったけど(あたりまえ)、わたしの日々の勤務態度や休憩中の振る舞いとかを見ていたら、そういうのは見抜かれていたと思う。そんなんだから、急に食事に誘われてふつうに動揺していたのかもしれない。
「じゃあ、なんで動揺するの?」というお話なんですが。
わたしの個人的な考え方として、付き合う人間をしっかりゾーニングするんですよね。
自分を取り巻く人間関係を、たとえば「大学の人間」「アルバイト先の人間」「地元の人間」「高校の人間」……みたいに丁寧に瓶詰めしてラベリングして飾っておく趣味がある。
基本的にラベリングしたエリア以外でその瓶の中の人間とかかわりたくないという融通の利かなさが今回の原因でして。
文章だけ長ったらしくてわかりにくいけど、バイト先の人間とはバイト先以外では会いたくないし、大学の人間とは大学以外では会いたくないというハナシ。
それは職場の人間相手でもまったく同じで。彼ら彼女らも、しっかり「職場の人間」のラベルを丁寧に貼った瓶の中に入って並べられているのよ。
「プライベートで食事に行く」のは「職場の人間」のラベルを貼った瓶の外でその人間とかかわらないといけない。
そのことが、自分で思っていたより精神的な負担になっているのかなって。
なぜ瓶の外でかかわるのが精神的に負担なのか。それは、一度決められたものを動かすことにちょっとした抵抗感があるから。
一度瓶の中に詰められた人間を、別の瓶に移すことは滅多にない。
瓶から出して手元にそれらを置くことへの抵抗感が、「ちょっとした」どころではなくもっと強烈なものだったのでしょう。知らんけど。
それが、最近の言葉のつっかえ方の変化の原因だと思う。
なんか悲しいよね。
ふつうさ、別に不快に思っていない人間からの食事のお誘いって少なからず嬉しいものだと思うんだよね。
わたしだって、さんざん悪いように書いていたけど、お誘いを受けたときはちょっとだけ嬉しかった。
それなのに、それが心の負担になっていて吃音によくない影響を与えているんだから。
わたしの社会との相性の悪さが、人間社会への不適合の度合いが改めて浮き彫りになったよね。
はあ。自分で分析しながら憂鬱になってきた。
途中まで吃音の悩みだったのに、最後のほうはメンヘラちゃんの嘆きみたいになっちゃった。まあ、たぶんわたしメンヘラちゃんなんだけど。
吃音メインというか、人間関係メインというか。
吃音の状態の乱高下には、いろんな精神的ストレスや心の動きの変化がかかわっているよっていうまとめかたでいい?
なるべく、心が波立たないように過ごしたいよね。
今回はこんな感じ。おつかれサマー。
みなさま、よき感受性が豊かな子どもライフをお過ごしください。
※今回の記事を書きながら聴いていた音楽