哲学対話に何を求めているのだろう
「おにぎりさんは、学校にいる貴重なケアの人」
と言われて、初めて自覚した。
私はケアの人なのか・・・
ここ最近、「私は哲学対話に何を求めているのだろう」と考えることが増えた。
それは、哲学対話の目的でもあり、定義でもあり、動機でもあり、
とにかく、自分がここまで哲学対話に夢中になっている理由を知りたかった。
哲学対話のファシリテーションを学ぶために、
憧れているファシリテーターの方々の哲学対話に参加した。
・永井玲衣さん
・土屋陽介さん
・寺田俊郎さん
・苫野一徳さん
・堀越耀介さん
・幡野雄一さん
・松川えりさん
・山本和則さん
・小川泰治さん
・角田将太郎さん
・河野哲也さん
(教員教授職の方もいますが、一律敬称は「さん」としました。)
どの方も参加する前から活躍を存じ上げていて、
本や論文を事前に読ませていただいていたし、憧れの方ばかり。
こんな有名な方々の哲学対話にライブで参加して、
さあ、どんなファシリテーションを学ぶことができたのか?
答えは、結局はお一人お一人の「人柄」と「態度」だな…という、
なんともつかみどころのない空気感みたいなのを感じて、終わった。
もっと技術的な「方法論」が見つかると思っていたが、
これまで積み上げてきた歴史や道のりを、そんな単純に紐解けるはずもなく、
「あーすごい!この方だからこそ、できる技だ」と感動するだけだった。
そこから、自分と向き合う日々が始まった。
結局は一人一人の「人柄」と「態度」ということを肌で感じたならば、
私の哲学対話における「人柄」と「態度」って何なんだろう?
そもそも、どんなことを哲学対話に求めて、自分はどんなファシリテーターになりたいのだろう?
そんなことを考えることになった。
そんな矢先に、冒頭の「ケアの人」と私をかたどってもらった訳だ。
悩んでいる私の現状なんて話していないのに、唐突に。
運命かと思った(笑)
そして、「ジョハリの窓」を思い出した。
私の知らない私を、他者からの視点で教えてもらえた!
「ケアってなんだろう?」
知りたいと掻き立てられた。
同時に、面白い話も聞いた。
著名なファシリテーターの方は、「思考力重視派」か「ケア重視派」かに分かれる。
もちろん、どちらも欠けては成り立たないが、
どちらに重きを置いているのかという見方だ。
そこから、「この方はどっちだ?」と分類を楽しんだ。
「本人はケアを重視していると言っているけど、自然とにじみ出てるよね思考力が。」とか、
「雰囲気が柔らかいから一見ケア重視かと見えるけど、本人は探究重視と言うくらい思考力派の方だよね」とか、
本当にラフに、「あのイケメン、塩顔だったよね。いや、しょうゆでしょ。ソース?」みたいな軽いノリで(すみません)、
お気楽な分析していたら、
「ケアってなんだろう?」という部分も少し見えてきた気がした。
「おにぎりさんは、場づくりが気になるでしょ?学校で授業としてやるから探究ももちろん重視しなきゃいけないかもしれないけど、ケアに重きを置いて哲学対話をしたいと思っている学校では貴重な存在」
と言われて、
「そうか!!!!!」とつながったのだった。
(学校では貴重な存在…という部分に関しては、また今度)
ここ最近、
「哲学対話で、何が楽しいか?」という話題を仲間としている時に、
「考えること、問うことが楽しい」と聞いて、自分はどうかな?と思うことがあった。
私はもともとは、考えることなんて苦手で、じっくり考えずに直観で、ぱっと決めてしまうことも多いし、
問いかけるよりもまどろっこしくなく直球で話したい性格で…
しかも一人で考えていると「うわわわーーーー」とちゃぶ台返しをしたくなる。
そんな私がなんで「哲学」対話が好きなんだろう?と疑問もあったのだけど、
どうもそれを言うのが間違っている気がして、そんな自分を見えないふりをしていたのかもしれない。
その仲間への信頼があって、思い切って出してみた。
「私は、考えることとか問うこととか、それは後からついてくるもので、
相手の考えを聞いてみたいと思って、引き出すために問うだけだし、
考えたいというよりも、相手の話を聞くことで思考が活性化して考えることが始まるから、
哲学対話では、聞くと話すが楽しい」と。
そうか、私は哲学「対話」が好きなんだ、とわかった瞬間だった。
じゃあ、「哲学対話」じゃなくていいじゃんと、自分で言いながら哲学対話から迷子になったときに、ケア重視の人もいるんだということを知って、救われた気持ちになった。
ここでいうケアとは、いわゆる「産後ケア」の時に使われるケアとは意味が少し違う。
産後ケアは、弱っている人を手取り足取り助けるという介助の意味合いが強いように思うけど、
私は弱っている人だけを対象にはしていないし、手取り足取り助ける使命感みたいなものもない。
場にいる人が「ここにいても大丈夫と思える場」になっているかな、と心を寄せるという意味だ。
そういえば・・・と思って、本棚へ向かった。
「ここにいても大丈夫と思える場」という言葉は、ある本にあったんだった。
『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』という本だ。
こどものてつがく-ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)
https://amzn.asia/d/aHEdow0
読み始めたら、止まらなくなった。
先が気になってしまって途中でやめるのができなくなる感覚を、久しぶりに味わった。
私は、P4Cの理念ではなく、p4cなんだ…
読んでいない人には何を言っているのか、大文字と小文字の違いに何があるのかと気になると思うが、
自分が目指す方向性が見えたような光を感じたのは間違いなかった。
私は哲学対話で、そこに「セーフな探究のコミュニティ」を作りたいと思っているんだなと。
思考力とか、探究心とか、言語力とかの育成は、あくまでそれが成り立ってからだと思っているし、
哲学的な問いを材料にしながらも、段々と哲学的な問いについて本格的に考えていく
スイッチの切り替えみたいな瞬間が好きなんだなと思えた。
セーフというのは、「ここにいて大丈夫とおもえる」ということ。
哲学対話を通して、こどもも大人もそんな場をつくりたい。
つくった上で、問いを考えて話して聞いて自分なりの答えを見つけたい。
そんなことを思えた。
あ!!!
本の要約をするつもりが、前置きが長くなった。
いつも私は前置きが長い。