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信じた世界が現実世界

(読了目安 2分)

僕は子供の世界観が大好きだ。

子供がごっこ遊びをするとき、彼らの中では本当にそのキャラクターが存在することになっている。

また、よく子供が大人の見えない何者かと話しているという話を聞くが、何ら不思議ではない。

彼らの中では空想も現実も同じなのだ。いると思えばいるし、いないと思えばいない。

一時期僕は好きだった漫画や小説、映画、科学の世界に全く興味が無くなってしまったことがある。

それはその世界が所詮は空想の世界と割り切ってしまったからであった。また科学の世界はこの世の中に存在する事実を人が解釈できる言語や数字、モデルに翻訳しただけのもののようで全く新しみがない様に思えた。

しかし今はどれもまた楽しめるようになっている。

四年間鬱病を拗らせた時に周りの世界が張りぼての世界のようでまるで現実味がないような感覚を感じていた。食事も味がなく、人の声がまるでシナリオのある台詞のように感じ、頭に入ってこなかった。

それは恐らく心の安定化を図る為、信じたくない世界に焦点を当てないように心と体が反応しないようにしてくれていたと理解している。

今は空想も現実も変わりがない世界なのだと理解し、より沢山のことを楽しめるようになった。

自分が臨場感を持って信じる世界が現実なのだと超自己流の解釈をしている。

空想も現実ももともと意味なんて存在しない。

空想と現実と定義しているのが自分だし、意味付けを行うのも自分だ。

あるかないかもわからない世界だから絶望するか、

あるかないかもわからない世界だから楽しむか、

空想やそこから発生する行動を人のために使うのか、自分のために使うのか、何もしないのか、

選択するのは自分だ。

そして人の為にと思うと必ず、良いフィードバックを得られる。ただ別に無理して人の為にとする必要もない。

"おもしろきこともなき世をおもしろく

すみなしことは

こころなりけり"

高杉晋作

"我思う 故に我あり"

ルネ・デカルト

これらの言葉の本当の意味はこのように思う。

僕は田舎でゆっくりまったり、自分のできる貢献をするのだ。(^.^)

ことり 拝

いつもお読みいただき有難う御座います。私の目標は人が自分らしさを発揮して生きている社会をつくる事です。