雑記63 雑談:ブルデルの彫刻を昔見て感動したが それをうまく人に表現できなかったなと思い出す
雑記63 雑談:ブルデルの彫刻を昔見て感動したが それをうまく人に表現できなかったなと思い出す
文字数 7000ほど
【はじめに】
試みに、動画音声版をYouTubeのリンクにて掲載しております。本文5000文字弱の文字数で、14分間位の音声となっております。
加筆部分の音声②は、5分弱で、
合計19分ほどになっています。
もし気が向いたらば、そちらのほうも触れてみていただけると嬉しく思います。
細かい箇所の省略はありますが、本文と内容は同じものになっております。読むのが大変だと言う方は、音声版を視聴してみてくださると幸いです。
(( )) というカッコで囲んでいる箇所は、1つ目の音声作成後に追記した箇所です。
音声版2 として、掲載しました。5分弱。
結果として、途中に挿入した追加部分の音声版2の内容が、より自分の心の核心に触れたものになったと感じています。
まだまだわからないことだらけで記事の投稿をしております。音声版もなかなか勝手がつかめておらず、言い間違いなども途中にあり、聞き苦しいところもあるかもしれません。
とにかく「今の自分はこんな感じ」と言うものは、よくも悪くもそれなりに反映されているのかなということを感じますので、模索中の実験段階ですが音声版を掲載いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
【本文の 音声版 : 再生時間14分ほどです】
(歯車ボタンから「再生速度」を0.25倍速〜2.0倍速にて調整可能なようです。その中の「カスタム」を選択すると、更に細かい調整が可能なようです。)
音声版その2 5分弱
【本文】
南くん
北野さん、突然ですが、「ブルデル」って言う人って知ってますか?
もしかしたらブールデルというのかもしれませんが。
(調べたところ、一般に広く「ブールデル」と表記されているようです。)
北野さん
… うーん…
… … 知ってるかもしれない。箱根の彫刻の森美術館に作品が展示されてる人かな。ちょっと記憶が曖昧だけど。フランス人じゃなかったっけ。昔、箱根の彫刻の森美術館に友人と立ち寄った時に確か見かけて、その時なりにずいぶん心を動かされた気がしたような記憶があるな。記憶違いじゃなければ、なんだか南米にも滞在してたりしていた気がしたけど、合ってるかな。
南くん
合っていると思います。北野さんの言っている人のつもりで話しています。
僕も箱根の彫刻の森美術館で、その人の彫刻を見て、すごくいいなと感銘を受けて、それ以来ずっと気になっているという感じです。
多分、年代的には、その人の文章を日本語訳で昔読んだときに、「有名なロダンが老人の時に、私(ブルデル)は青年だった」という話を読んだ記憶があります。多分、ロダンと彼とは、ロダンの方が40歳とか位年上というような年齢の関係なのかな、ということを思っています。その辺をちゃんと確かめていないので数字などちょっとあやふやですが…
南米についての情報は僕はちょっと今はよくわかりませんが。
北野さん
僕は彫刻の森美術館で作品を見て、その時なりにずいぶん心を動かされたから、その後会った友人に、「彼の彫刻はずいぶんすごいな、感動させるものがあるな」ということを熱心にしゃべったんだけど、その友達は、「すごい、感動した、と言われても具体的に何にどう感動して、何がどう具体的にすごかったのか言われないと、こちらには全然わからないな」ということを言ってきたことを僕は妙によく覚えているな。
その友人の言いぶりも確かにその通りなんだけれども、彫刻や絵画において、もっと言えば文学や映画、芸術作品全般において、受け手がキャッチした強い印象や感動を、端的に言葉にしていく、ということは、「誰もが簡単にできる容易でスムーズな道のりではない」 と僕は思うな。
数学者の岡潔さんが、ピカソの絵について、「この絵は仏教で言う無明を描いている」ということを書いているようだけれど、それについて小林秀雄は、「あなたは絵画を見て、その印象が言葉になるまで考えを煮詰めているわけでしょう、それは批評ですね」というような意味のことを言っているように思う。これは小林秀雄が岡潔さんの、「心の中で考えを煮詰める手腕」を高く評価している言葉だ、と僕は勝手に解釈している。
その言い方を聞いていると、ある芸術作品から受ける印象や感動を端的に、具体的な形へと変化させていくというのは、なかなか強度の高い精神的な力量を必要とするものなんじゃないか、ということを僕は今思うな。
まぁ、当時の僕は、今よりも、もっと自分の心の内や、自分が感じていることを、言葉にしていく能力において実に拙劣だったと振り返って感じている。
いろいろな感動や感情が、仕分けされず混然一体とした状態になっていたと振り返って感じている。
((音声版にない加筆↓))
((偶発的に始めて、長らく続けてきた小林秀雄やその周りの作家の文章の「音読」が僕を根本的に変えていったように思う。10年はやってきたと思うが、ちょっとした生活の小さな時間における音読の蓄積が、ちょっとずつ僕の「頭」ではなく、「体」を変えていったように感じている。一つ一つの蓄積は、本当に小さいものだったと思うが、音読の「ほんの小さな蓄積」が僕の体に徐々に変化をもたらした。それは僕の身近な人との会話の時に、意図せずとも自然に影響して出てくるようなものに感じられた。僕は、身近な友人や家族に、昔はうまく心の底にあるものをうまく言葉で表現できなかった。僕は、自分は「今後もずっとそうなのではないか」と思っていた。しかし、何年もの小さな音読の積み重ねが僕の体を徐々に変えていき、それらが自分の中に染みつき、それらが僕の心の中に浮かんでくる言葉を変えていった。それが、僕がとっさに人に対して発する言葉を変えていった。今、僕は身近な友人や家族との会話において、そして何か文面を作成する上で、上手か下手かは別にして、「自分の心にしっくりくる言葉、心に適う言葉」を選べるようになってきている。それは、昔の自分からは全く想像できない状況で、僕はそれを本当に居心地よく感じ、喜ばしく思っている。僕は高校時代、600文字の小論文の試験を相手にしてさえ、怖気付き、途方もない高い壁に思えたものだった。
時間が経って、ふと振り返ると、気が遠くなるような長い道を、僕は意図せず歩いてきたように感じる。僕はただ、この先がどうなるのか全く見通しがつかないようにその時々で感じ、まるで霧の中のように見える「その時その時」の中を、転んでひどい怪我をしないように気をつけながら一歩一歩、歩みをとにかく続けようということだけ考えていた。先を見る余裕などは僕に与えられていなかった。今、僕の心の中には「僕にとって実に心にしっくりくる言葉のうねり」があることを感じているが、僕はこんな状態・境地に僕がやってこれるなどとは全く想像していなかった。自分でつかみとったものというより、息も絶え絶えに祈るような気持ちで這って進むような気持ちで歩む内に、気がつけば前よりも明るいところにいる自分に気がついた。もう一度やれと言われても難しく感じる。
昔の僕に今の僕が何か一つ言えるとしたら、それは「目に見える具体的な、すぐ結果の想像のつくごく小さな一歩。それを無数に、ただ目の前を見て、積み重ねていくこと。そうすれば、今の君が全く想像もできないような、そして、実は君自身ですら気付いていない君の本当の希望を達成したような境地にきっと辿り着くことができる、ということだ。先を予見しようとしても、想像しても、未来はわからないが、目の前の一歩をおろそかにしないようにすることが大事だ。その一歩一歩の価値を自分で信じていいのだ、ということだ。
そして今、先行きが暗く感じ不安をいだいている他の人について、僕はこう思う。僕の場合は蓄積する一歩一歩は「音読」という形だったが、きっとその人ごとのしがみつくべき「何か」がそれぞれあるのだと思う。先がどんなに暗く見えようと、今その人が「できること」の中で、何か「これだ」と感じるものがあれば、それにしがみついて「ほんの小さな、先にどうつながるかわからないようなささやかな一歩の積み重ね・蓄積」をしていけば、きっとその人にとって望ましい「思いがけない、なにか明るいところ」に導いていってくれるんじゃないか、ということを僕は今思っている。))
((話を、昔の友人との会話に戻すと、))
当時の僕の心の内には強い熱気はあったが、そうした熱気を、混沌とした状態のまま、制御もあまり効かない状態で、僕の側から好き放題に放射され、それをぶつけられる側としては、「もうちょっと仕分けして、混沌に秩序を与えた状態で、ちょうど良い具合に熱を覚ました状態にしてから、こちらにぶつけてほしいかな」というようなことを例えば思ったとしても、それは自然なことであり、理に適ったことだとも今僕は思うようになっている。
それはそうと、今の僕だったら当時の自分と違ってまた違うアプローチを試みるかもしれない。当時の自分はその友人に対して言葉で自分の感動を表現しようとした。それは実に拙劣な方法でだったけどね。
今の自分だったら、一つの可能性としては、昔よりも少しはマシになった「言葉の力」によって表現を試みるかもしれない。それは以前も試みたやり方の焼き直しにあたる。
しかしもう一つの可能性として、ブルデルの彫刻作品をもとにして、そこから着想を得て自分で絵を描いたり、粘土細工で彼の彫刻作品を模倣して作って、それによって何かを表現していく、という道筋を選択肢として検討する心が自分の中にあるということを感じている。
今はまだ全然着手できていない憧れのようなことだけれども、僕は歴史的な彫刻作品、歴史的な建造物、そうしたものについて、粘土や木材等を駆使して、そうしたものの扱いに少しずつ習熟を重ねていって、それらのミニチュアや模型のようなものを作っていくことができたらいいなということを思っている。
そうすることで、彫刻作品や建造物に対しての理解や熟知の度合いを高めていきたいということを希望している。ヴァレリーは、「絵画の父親は彫刻であり、彫刻の父親は建築である」ということを言っているように思う。また、僕はラベッソンについて「絵画を学生に教えるために、絵の題材の理想系は人間の体だということを考えて、絵画の学習の題材として彫刻の収集と研究を始めた。その延長で彼は彫刻に習熟していく道にどんどん深入りしていった」というような説明をして、そう間違っていないのではないか、と思っている。
ここで僕は何を言いたいかというと、絵画、彫刻、建築、という3つのジャンルの芸術はそれぞれ関係しあっていて、どれか一つに熟達することで、他のものにその影響が及ぶもののように感じられる、そういう相互関連性を持ったメカニズム・機構の中にそれらは包含されている、ということを主張し、強調したいのだ。
その、「関係しあっている」という点は、おそらく僕や南くんが主な研究・探求の領域としている文芸・文学においても例外ではなく、彫刻の探求をすることが文芸文学の探求にかなりの影響を与えると僕は思っているし、建築の探求をすることが文芸文学の探求にかなりの影響を与えると僕は思っている。
それが故に僕は、自分の活動の主な領域は言葉の世界ではないか、と今思っているけれども、言葉の領域に活動領域を限定せず、彫刻や建築の研究というような、「造形の方向」と言って正しい表現かわからないが、とにかくそうした方向に対して自分の心の触手を伸ばしていきたいということを思っている。
ガウディは、僕のうろ覚えの記憶で恐縮だが、自分の建築している建物のミニチュア模型を枕元に置いていた、ということを僕はどこかで聞いた気がしている。
ミニチュア模型が自分の手近にずっとあって、ふと目線を動かすと簡単に視界に入るような場所にそれが存在し続けているという状況づくりは、僕の考えからすると、習熟を深めていくことに有効なやり方のように感じる。
まあ、この話は蛇足かもしれないが…
とにかく、僕が、言葉の領域にとどまらず(まだまだ言葉の領域だって気の遠くなるような気長な修練が必要だろうが…)、絵画、彫刻、建築、の領域にまで、「自分で自分に対して "この取り組み方は実に力強いものだ" というような強い満足感を抱けるような境地」にまで進出することができたら、それは僕にとって何か一つの憧れや願望を達成したことになるし、それは昔の自分にとってはなかなか想像することもできなかったような境地に踏み入れることになるわけで、そういう未来がどういう形でかはわからないが、自分の身において実現されていって欲しい、ということを思っている。
それにしても自分で話の方向をいたずらに枝分かれさせて複雑にしてしまう可能性があるが、少し寄り道をしたような話にも触れたい。
僕は自分で自分に対して、少し興味や関心の伸びる方向性が、多くなりすぎてはないか、ということについて懸念を持っている。植物でも、例えばそら豆などは、主要な太い茎が、少なすぎるのも問題だが、多すぎるのも問題だ、ということで、太い茎の本数を剪定してコントロールすることが通例となっているように自分は思っている。
それに似た具合に、僕も、自分の関心の方向を、何本か剪定して減らして、本数をコントロールしたほうが良いのではないか、という考えを抱くことがある。
しかしそれについて考えるごとに思うことは、主要な太い茎の、自ら伸びていこうという成長に対して、自分で剪定の刃を入れる事は自分にはどうも難しいということだ。
昔、植物の本を読んだときに、樹木に関して、同じ種類の木と木が、並んで生えているその感覚に応じて、ある木は縮小して小さくなったり、ある木は大きく育ったりと、互いに連携してサイズを調整し合う機能があるのではないか、という考えを披露している文章に出会った。そういう植物の働きを、自己間引き(マビキ)と呼んでいた。
僕は自分の精神的な興味関心の方向も、もしかしたら、そら豆のようなものというより、並んで育っている何本もの樹木、というようなものかもしれない、もしそういうものであるなら、場合によっては興味関心という樹木が互いに自己間引きして、自分たち自身でバランスを調整してくれるかもしれない、ということを思っている。
まぁ、つまみ食いみたいな知識で植物について語っているわけだから、もしかすると何かしら僕はとんちんかんな見解を披露しているのかもしれない。
それにしても南くん、南くんの方からブルデルの話を持ち出したということで、おそらく君のほうにもともと彼について話したいトピックがあったはずだと思う。僕はそれを横取りして、ずいぶん長々と一方的にしゃべってしまったな。苦笑
南くん
いやはや、僕としては北野さんの思うところを存分に伺うことができて終始楽しく感じていました。たしかに僕の側にもこういうことを話したいな、という話の種はあったんですが、前もって意図して持ち寄った材料を話すよりも、脱線的に、偶発的に、場の勢いで自分の中からどんどん、その時だからこそ出てくるような話を出し合う、というような即興的な要素が強い会話の方が僕はより面白いなということを思うので、今日の北野さんの一連のお話、すごく僕としては良かったと思っています。
今後も僕としては、脱線的、即興的、偶発的、というようなことを重要なポイントとして考えて、お互いにいろいろお話をして行けたらいいなということを思っています。
それに北野さんが今日話してくださったような事は、勢いで言葉として出てきたものかもしれませんが、聞いていて、北野さんの中で時間をかけて確かめられ、温められてきた考えなのだな、というような印象を受けました。僕としては、何か精神的な栄養をいただいたように感じています。お話しいただいて、ありがとうございました。
北野さん
いやはや、そう言ってもらえると恐縮です。勢いで一方的にずいぶん長々と喋り続けてしまったという感じがあったので…苦笑
次の機会には南くんにいろいろとお話を伺えたらと思っています。
南くん
だんだんと、文字量もいい数字になってきたので、今日はこの辺で一区切りとしようかと思います。
北野さん、今日もお話にお付き合いいただきありがとうございました。また次回もどうぞよろしくお願いいたします。
北野さん
南くん、こちらこそどうもありがとうございました。次回はぜひ、南くんのお話をいろいろ伺う聞き役になっていけたらと思います。どうぞ次回もよろしくお願いいたします。
ここまで
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。長々とした文面になりましたが、読んでくださって、少しでも楽しんでいただけたらば嬉しい限りです。
もし気が向いたらば、またお立ち寄りください。