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58.論語ノート、論語6巻、子貢(賜)は"やり手感"がある、子張(師)は若い、6巻で顔回は没する、

58.論語ノート、論語6巻、子貢(賜)は"やり手感"がある、子張(師)は若い、6巻で顔回は没する、



文字数2700




参考資料
岩波文庫 論語  金谷治 訳注


以下に、引用、p〜 と書く場合、特にことわっていない場合、この岩波文庫 論語からの引用である。





論語   6巻の中に 11〜12巻が 収録されていて、その中に複数の章段が収録されている。

そうした巻や章段の数を以下では簡易に、

6-11-10 とか
6-12-5  などと記載する。

これは、
論語 6巻の11巻の 章段10 とか、 6巻の12巻の章段5を表す。
自分の勝手な我流な記述法である。





論語のノートを作ろうとしている。
平家物語だと、人名をカタカナで書いても重複が少ないので成り立つ。
論語だと、それが難しい気がしている。

シロ 子路 (別名、キロ、チュウユウ)
ソウシ 曾子 (別名、参 のシン、 サンと読むかと思っていたが振り仮名によるとシンと読むらしい。)


全体を見渡してみると、同音でカタカナ表記で重複する人物名はそんなに多くないように感じる。

重複する人名で今自分が把握しているのは、
シコウ である。

・子貢 シコウ
・子コウ (コウは羊の下が飛び出ない漢字、字の呼び出し方がわからない。)

(漢字の呼び出しがもっと上手くなりたい。人々 の 2文字目など固有の名前があるようだが、こうしたものも呼び方を知っていると意外と役立つ。漢字の「つくり(部首、偏?、など)」についてももっと把握したい。)

(人々の2文字目は調べたところ、漢字ではなく補助記号とされるらしい。俗に「ノマ点 ノマテン」と呼ばれているらしい。)






岩波文庫版の巻末の索引は使いやすく、人名のリストにはその人物の名前(あざな等も併記)と共に、登場するページ数が書かれている。
この登場ページ数が多い人物を優先的にまずは抑えて把握していくことで理解がスムーズになりそうに感じている。

少し気になるのは、あくまで「登場ページ数」なので、登場回数ではないことである。
一つのページに2回連続して登場する場合などはおそらく1ページ分としてカウントされている。
しかし、それもそこまで拘らなくても問題がない気もする。





小林秀雄の本のどこかで読んだが(論語、というより孔子を好んだ本居宣長についての文章のどこかだと思うが)、論語は前半と後半とで真偽の疑いの度合いが違うらしく、
前半は当時の孔子の弟子の記録したものだが、後半になると後世の創作が混じっているのでは、と言われているらしい。

論語は大きな区分で言うと10巻に分かれている。(大雑把に言うと)

1〜5巻までを上論語と呼び、
6〜10巻を下論語と呼ぶように自分は認識している。

カミロンゴ、シモロンゴなどと読むのだろうか?

都合よく、岩波文庫の論語は、手元の版だと、
〜200ページが 5巻、
201〜ページが6巻と分かれている。


どちらも読んでいきたいが、人物索引でページ数が書かれている時、200以下の数字と、201以上の数字のどちらなのかを時々気にかけるのも意味があるかもしれない。
(あくまで岩波文庫版の話だが)





論語 6巻を読んでいる。

子張 シチョウ が、聡明ということについて尋ねる。
孔子は、「しみこむようなじわじわくる悪口…(中略)…が通用しないようなら聡明といってよいだろう」引用 と シチョウに話す。
p239  引用


現代語訳で「しみこむようなじわじわくる悪口」と書いてあるが、それ自体が読んでいて「こちらにじわじわとしみこんでくるような表現だな」と感じる。



子張 →師  、 なにか強引な語呂合わせでいいから、
子張と師をつなげる覚え方を作りたい。

… 子張は、孔子49歳の時生まれた。若い。
「若いので師に追いつこうと張り切っている。背伸びして師とアザナをつけている。」などととりあえず強引に覚えたい。

p240では、(6-12-20)
通達について先生に聞くが、通達の意味について問われ、答えると、その捉え方がまず違うと言われる。





p230
子貢が政治について先生に質問をすると、先生はa b cが大事だと答える。子貢は「どうしてもやむをえずにすてるなら、…(中略)…どれを先にしますか」引用  と2度尋ね、先生は結局、a〜cに 順位付けをした。
(a〜cは、食料、軍備、信の3つ。結局、残るもの、一番欠かせないもののは信だと孔子は答える。)
引用は p230から


子貢は言語に優れている、と孔子は言っているが、こうした場面に子貢の弁論的なすばしっこさが出ている気がする。



子貢→賜    
強引な覚え方   「子貢は弁論的な敏捷性を恩賜(付与)されて生まれてきた。」

このくだりにおいて、徂徠と仁斎とで解釈の違いがあるらしい。
6-12-07



仲由→ これは、由→子路のことだろうか?

赤→コウセイカ(コウサイカ?)、子華



シコウ、この音の名前は二人いるようである。
・子貢
・子コウ  、こちらは漢字の呼び出し方がわからない。羊の字の下が飛び出ない漢字を当てる

柴と書いて、サイ と読む。




このノートは論語6巻(6-11、6-12)を中心にメモ書きをしたものである。

他の巻についてもノートを作成していきたい。
ちなみに、この6巻において、顔回(回)の訃報に孔子が接する場面が収録されている。

7巻以降の顔回の扱いはどうなっているのだろうか。別に、時系列順に構成されていなくて、顔回の生前、没後などといった時系列はそんなにないのだろうか。
確かめていきたい。

それにしても、6巻にて、
顔回と子貢は高く評価されていると感じる。

子張、子路、など4人は欠点を指摘されているが、それに続いて、顔回と子貢は長所や強みを指摘されている。
子貢は「やり手」という感じで、それが際立って良い評価かはわからないが。

顔回→回
子貢→賜




6-11-14  p210
ビンシケン は蔵を新しく作るという時に、昔通りで良いと言った。
孔子は、ビンシケンは口数少ないが話す時は適切だ、と高評価している。


ビンシケンは「おそばにいて慎み深く」引用 p209   6-11-13  とある。
ここにも 6-11-14と共通するイメージが出てきている。




子貢が 2人の門人について孔子の評価を聞く話がある。

それにしても、この6巻は弟子たちの名前がよく出てくるが、5巻を見てみると弟子たちの名前の登場が6巻に比べて少なく感じる。

巻によって雰囲気が違うことを感じる。

今は自分は弟子たちの特徴を一人一人つかめたら、と思っているので、弟子たちの記述の多い巻を中心にノートを作成していきたいと思っている。


今後またノートを作成して論語の把握度を高めていきたい。




ここまで。

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