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10.断片集、つぶやき集06 芸術家の短距離ランナーと長距離ランナー、中川一政さんは長距離ランナー

10.断片集、つぶやき集06 芸術家の短距離ランナーと長距離ランナー、中川一政さんは長距離ランナー



小林秀雄が言及していて、チェックしたいと時々思う人。河上徹太郎か今日出海との対談で触れている。

ライシャワー    
サンソム
ノーマン

ノーマン、サンソムは、単純にその名前だけで検索してもヒットしづらい。
フルネームを覚えておかないととっさに検索してもうまくいきにくい気がしている。




画家の中川一政さんは、中川さんにとって手本となり得る、自分よりも年代の上の画家や文章作家についていろいろ書いている。
その中で、ある種類の人を短距離ランナーと呼んで、ある種類の人を長距離ランナーと呼んでいる。

短距離ランナーは20代や30代で亡くなったような人たちで、長距離ランナーは70代や80代や90代まで長寿を得た人の事のようである。
ゴッホ、芥川、太宰などは短距離ランナーと言って良いと思う。
鉄斎などは長距離ランナーと言っていいと思う。

中川さんとしては、短距離ランナーの人からも学ぶことがたくさんあるけれど、長距離ランナーの人から、よりスムーズに物事を吸収できるという感じがあったようである。
中川さんは結果として長距離ランナーとしての人生を送ったようである。




ガラケーからスマートフォンに移行してから、自分はiPhoneしか使った事が無い。
最近、アンドロイドスマホにも少し興味が湧いてきて、自分にわからない点を中古スマホショップに置いてあれこれ質問してみたことがある。
自分が驚いたのは、アンドロイドスマホは一般的に、バッテリー寿命の目安を示す数字などが閲覧できないという話だった。
iPhoneだと、最大バッテリー充電可能容量というようなものが、%表示で閲覧することができる。
アンドロイドスマホだと、何か特別な努力や用具がない限り、それを閲覧することが基本的にはできない、という話を複数のショップの定員さんから聞いた。
自分はそれを聞いて、それは自分にとって不都合だな、と感じている。




エディージョーンズさんは、ペップ・グアルディオラと意気投合したらしい。
グアルディオラについての本を読むと、グアルディオラが、チェスの カスパロフに強く心を惹かれたらしい記述がある。
エディーさんが、カスパロフについて言及しているのを読んだことはないが、恐らくカスパロフの文章や、その考え方を好むだろうと自分は思っている。




①〜④まで


忖度という言葉は、2024年現在使われている使われ方と、例えば1980年代頃に使われている使われ方とで、趣が大きく違うように自分には感じられる。
用法も違ってきている。

昔の忖度という言葉は、「その人の心を忖度する」というように、その対象となるのは、ある「人物の心」であったように思う。
現在の忖度という言葉は、「誰々に忖度する」というふうに使われて、対象となるのは「人物自体(人物の心ではなく)」や「状況」である。

昔の忖度は、「〜"を" 忖度する」と言い、

今の忖度は、「〜"に" 忖度する」と言う。




イントネーション、音の高い低いのアクセントも異なっている。

昔の忖度という言葉は、今の標準語で言う、「洗濯物」というときの、「洗濯」という音の高さの発音で用いられている。
(高→高)
現在の忖度という言葉は、最初の文字の「忖」というところで音の高さがぐっと下がる。
(下がる→低)

小林秀雄の講演会のCD音源などで、忖度という言葉が使われているが、こうした場合、昔の忖度という言葉の用法、アクセントで話されている。
現在流行している忖度という言葉とは違うもののように自分には感じられる。同姓同名の全く別人、という風に自分にはどうしても感じられる。




現在の忖度は、「空気を読む」「状況の空気に流される」というような意味合いで基本的に使われているように感じる。人間の妥協的、不徹底なことについて指す傾向が強く、「忖度」するような人間は、基本的に「カッコ悪い人間」だということになる。

昔の忖度の使われ方を観察していると、自分は、
「他人の心や感情を忖度(昔の忖度)することができない者は、本当の意味で立派な人間とは自分は思えない。」 ということを思う。

いつの世でも、他の人の心をこまやかに推し量ることができる人は信頼できる人で、立派な人間と自分は思うが、忖度も昔は「推し量る」という言葉と似た意味合いで使われていたようである。
「昔の忖度」は、それを高い強度でしっかり実施できる人は、自分としては、信頼でき、尊敬でき、そうなりたいと感じさせる人だと感じる。

現在は「忖度」する人間は、状況に圧迫されて、妥協的な態度を取る、中途半端な芯のない人間、を指す傾向が強くなっている。
自分としては、そうした傾向(忖度という言葉のいたずらな流行と広がり)をあまり快く感じることができないでいる。
心の狭さがそうさせるのだろうか。




ちなみに、慮る(おもんぱかる)も「昔の忖度」と似た意味合いではあるが、「慮る」は自分には相手の心の内を推し量った上で、そこから相手を含めた何かしらの行動につなげていく向きがあるように感じられる。

「昔の忖度」は、例えば故人の文書を読んで、その心事を推し量る時に使われることがあるように、そこから行動に向かわず、ただ「我が心で相手の心の内を推し量る」という「心の中の出来事」に留まる向きが比較して強い気がしている。あくまで自分の勝手な主観による考えに過ぎないかもしれないけれども。

以上①から④は、自分の勝手な主観的な記述で、不正確な内容も含まれているかもしれない。



noteを使っていて、「月別」という項目で、自分や他の人の月別の記事数を確認することができるが、「年別」の数字や、「通算記事数」なども、パッとわかる形で確認できたらいいな、と思うことがある。



ノーアイディア no idea という状態は中々つらいものに感じる。
自分は例えばサッカーについて1時間喋ってください、と言われたら、自分はプレーレベルは高くなくても、話の引き出しは多少はあって、「これを話そう、あれを話そう」と間が持つように思う。
料理について1時間喋ってください、と言われたら、話の引き出しは少なく、間が持たないように思う。

ideaが豊富にあると得意意識を割と持ちやすくなって、それなりに対象に対して取り組みを継続しやすい。

ideaが少ないと苦手意識を割と持ちやすくなって、対象に取り組もうと思っても、なんとなく間が持たなくてドロップアウトしやすくなる傾向がある気がしている。




何年も前に、スペイン語を急ぎ足で勉強した。
その後、南米地域をバックパック旅行したことがある。
スペイン語の単語集を何十周も音読して、単語集は「正」の字だらけになった。
スペイン語で初めて会話した相手は、チリ人の女性で親切な人だった。
飛行機の中で目が合って、窓際から外の景色を見る?、と話しかけてくれた。
彼女は、自分はチリの首都、サンティアゴ・デ・チリの生まれで、育ちもそこだが、今はスペインのバルセロナの大学の学生で、帰省でサンティアゴの実家に行く途中だという。
唐突に発生した会話だったので、初め、かなりまごついたことを今思い出している。

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OndokuAikouka(音読研究×小林秀雄散策)
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