愛するよりも愛されたい。与えるよりも与えられたい。
自分自身を晒していけるようになる。それがnoteを書き始めた理由の一つなので、恥を忍んで書く。
人に何かを与えるよりも、与えられたい人間である。
ということに、やっと気づけた。
「愛するよりも愛されたい。何かを提供するより、与えられながら生きたい。」そういった方も一定数いるはずだ。
しかし私の場合、どんな人になりたいですか?と問われると
「どんな些細なことでもいいから人の役に立ちたい」と、聖人のように答えてきた歴史がある。
「人の役に立つ=誰かのために何かを与えられる人」と定義しており、与えられる側より与える方が優れている。良い行いであると信じていたから。だから、良い行いを些細なことでいいから、積み重ねていきたいと。
その言葉に嘘はなく、心から思っていた。
最近は「人の役に立ちたい」誰かとは、「家族や親しい友人」といった半径5メートルほどの身近な人が対象であることにも気づけた。
社会や世界が遠い人間である。
よって自身の生きるテーマとして、「半径○メートル内の幸福の最大化」
を、今年掲げたばかりだ。何メートルかはわからないけれど、生きている間に、少しずつ半径を広げたい。夫と娘と私、3人の幸せの最大化からスタートだと意気込んでいる。
まずは自分の幸福の最大化だが、まずまずイイ感じに進んでる。
そして、次に幸福の最大化の対象者である夫からは、比較的辛辣な言葉を投げかけられることが多い。
夫「キキってさぁ、あまり人に何かを与えるってことしないけど、友達や同僚、家族、周囲の人たちって本当にいい人ばかりだよね。与えてもらってばかりなのにさぁ。」
私「はぁ?私だって、みんなの役に立ってるよ。」
夫「例えば?? 実家の皆さんのおもてなしも、結婚式の時の友達からの祝福のスピーチを聞いても、明らかに与えてもらってるものの方が多いよね。
大事に身に着けてるものとか、ほぼAちゃんにもらってるものやん。キキ、特に何もしてないよね。」
私「確かに・・・。でも、みんなを元気にする話をできるよ!」
夫「それ、みんなは求めてるの?与えられてる方が圧倒的に多いよ。」
私「・・・」
夫からの言葉に反論したかったものの、その時はたいした返答ができなかった。よくよく考えると、いや、よく考えなくても明白なのだが、人に与えたこと(モノ)より、人に与えてもらったこと(モノ)の方が圧倒的に多い。
大学も就職先も人に与えてもらって得た、最高の結果だったことも忘れてはいない。
夫とのやり取りで考えたことは、
・幸福の最大化と「役立ちたい」という気持ちや行為は切り離した方がよさそう。
ごっちゃにして考えているな、私。
・そもそも、人の役に立ちたいという障りのいい言葉につられているだけで、役立ちたいと思っているのか?
言葉につられてるわけではないかな。
・「人の役に立ちたい」というのは、エゴの押し付けか?
可能性あり。
・与えられる側より与える側が優れてるのか?
与えられるより、与える方が優れている。と思ってるからこそ、「与えられる人でありたい」と望んできたきらいがある。
優れていたい。優れた人、優れた人格でありたい。
だから、人の役に立ちたい。
あぁ、この方がしっくりくる。
人に何かを与えられる人じゃないと、不幸になるんじゃないかと不安だから。幸せで居続けるために、役立ってたいと願っていたのではないか。
愛するよりも愛されたい、
与えるよりも与えられていたい。
ちっぽけな自分が恥ずかしいが、
与えられ続けた過去や今が、とても心地良くて幸せだから。
◇
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私のようなブログ初心者にも、書くポイントやリンクの張り方、その人のフェイズにあったアドバイスを、参加者の方々が積極的に教えて下さるので、「人の役に立ちたい」という気持ちは、偽善的な言葉だったなぁと気づけたのである。
忘れかけていた、夫との会話も思い出した。
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