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【図解】『関係性の構造』で考える人類史 ~EP1「生物の自然状態」~

社会秩序はいかにして可能か

2020年8月、コロナ禍における日本人のマスク利用に関する意識調査について衝撃的(!?)な研究結果が発表された。「あなたがマスクをしている理由はなぜですか?」という問いに対して、最も多い回答が「誰かを感染させないため」でも、「自分が感染したくないから」でもなく、「皆がマスクをしているから」だったのだ。それも圧倒的な比率で。【1】

実感として、同意できる方も大勢いるのではないだろうか。正直に言えば、この結果については「あぁ、やっぱりな」という納得感の方が個人的には大きいのだが、もう少しこの回答の本音部分を探ると、おそらく「マスクをしていないと周りから白い眼で見られるのがイヤだから」という理由が存在しているように私には思える。実際にマスクをしていない人に思わずそのような眼を向けてしまった、あるいは向けられた経験がある方もいるだろう。

とはいえ、社会全体に感染症が蔓延しないため、どのようにして人びとに「マスクの着用」という行動規範を定着させるのかという課題に対して、この国でもっとも有効だったのが「世間の目」という同調圧力であったことには、いまさらながら溜め息が出てしまった。冗談交じりで言えば、どうりでマスクをしている人がおしなべて"息苦しそうな"顔をしているはずだ…と。

このアンケート調査は日本に住む人を対象にしたものだったので、海外でも似たような調査を行えばどのような結果が出たかは分からない。一番多い理由かどうかはともかく、おそらく他に「法律で決められているから」とか、「(罰金や強制退去などの)処罰を避けるため」、国柄によっては「偉大な指導者の指示」などがあり得るかもしれない(マスクの着用どころか、都市全体を完全封鎖させた国もあったほどだ)。

パンデミックの条件はまったく同じでありながら、人びとの行動を何かしら制限し、社会全体の状況を(可能な範囲で)統御するための「根拠」や「手法」、そしてそれを人びとがどこまで許容するのかが、国や地域、文化によってこうも違うものかと考えさせられた方も多いだろう。社会学者の大澤真幸が言うように、社会学の根本命題が「社会秩序はいかにして可能か」を探ることだとすれば、コロナ禍はその意味において、それぞれの社会に対して世界同時に課された「共通テスト」だったのかもしれない。

とりわけ、COVID-19は無症状であっても十分な感染力があるため、周囲にいる他人はおろか感染している本人にすら「誰が感染者か」は容易に判断がつかない、やっかいな感染症だ。PCR検査が容易に受けられず、ワクチンが未完成の時期においては、誰がいつどこで感染しているのかが極めて不明瞭な「社会的に不確実性が高い」状況であったことは間違いない。

それはあたかも、すべての人が誰に対しても疑いをもって行動しなければならない状況が日常化するという意味で、16世紀の政治思想家ホッブズが想定した「人間社会の自然状態(万人の万人に対する闘争)」が突如として出現したかのようであった。

ホッブズがこの想定を持ち出したのは、イギリスにおける宗教戦争による内乱という不安定な社会状況を解消し、一定の強制力をもつ政府の存在を正統化するためだった。ホッブズは、人びとの争い合いを終結させ、政府が社会を統治する根拠を「人びとの間での合意(社会契約)」に定めたことで、それまで主流であった王権神授説(王による統治は神に委ねられたものであるとする説)を唱える者たちから激しく非難された。

だが、ここで重要なのは、ホッブズがなぜ「神」ではなく「人びとの契約」こそが、政府が人間の行動を規制し、社会を統治する根拠として適当だと考えたのかだ。少し先走りしすぎたようなので、その問題はまた後ほど考えることにして、いずれにせよこのような「社会秩序の状態を作り出す根拠」に用いられているロジックを、ここでは「正統性原理」と一応呼んでおこう。

先に見たとおり、たとえパンデミックのような同じ社会状況におかれ、仮に同じ対応を取るにしても、国や地域、文化によって用いられる「正統性原理」は当然異なる。また「神からの委任」や「人びとの社会契約」を例とする、さまざまな「正統性原理」がこれまでの長い人類史のなかで各時代、各地域、各文化において編み出されてきた。

今回は少し時間をかけて、「社会秩序」をもたらす「根拠」や「手段」を手掛かりに、さまざまなタイプの社会構造を図解しながら、人類史の「大まかな見取り図」を描ければと思う。まずは、最初に基本的な秩序関係を「三つの類型」として描き、あとはその変型やアンサンブルとして社会構造の変遷を考えてみたい。

「オッカムの剃刀」のように、できるだけシンプルな定理から多くのことを説明できるようにとりあえずは目指したい。もちろん書きながら、それだけでは収まりきらない、さまざまな疑問や謎が出てくるだろう。思考が及ばず、十分に答えきれていないかもしれまない。でも、大切なのは「新たな問い」や「世界の見方」を発見することだ。

それでは、ホッブズにならい、「自然状態」からはじめることにしよう。

「生物の自然状態」=「人間の自然状態」?

ホッブズは既存の王政を正統化するために敢えて「人間の自然状態」を持ち出して、それを「万人の万人に対する闘争」と喩えたのだが、これについては別の視点からの批判もある。つまり、人間はつねに争い合う社会をずっと生きてきたわけではないし、本来的にはむしろ平和や平等を愛好する生き物なのではないか、という問いだ。

確かに人間は、同種間で戦争のような激しい闘争を行う一方で、友情や慈愛に満ちた行為もできる生き物である。すべての人間が自分の生存のことだけを考えて、つねに他人と争い、競い合っているわけではない。でも、ここで逆に疑問が浮かんでくる。それでは「なぜ人間は他人と争い合わずに済んでいるのか?」「どのようにして争い合いを回避、解消、解決しているのか?」と。

考えてみれば、人間に限らず、すべての生き物にとって「自己保存」は最低限の生存条件なはずだ。リチャード・ドーキンスが示したように「繁殖(遺伝子の継承)」こそが生き物にとっての最重要命題であったとしても、基本的には個体の生存を前提としている。であるとすれば、生物が生き残るうえで、どうしても「食物」をめぐる個体どうしの競合が発生するはずだからだ(食べなければ生きていけない)。

つまり、「人間の自然状態」を考えるよりもっと手前の「生物の自然状態」を想定すれば、あながちホッブズの主張も間違いではないのかもしれない。そしてそのうえで、人間の自然状態が「万人の万人に対する闘争」に"なっていない"のであれば、そこにこそ真の人間らしい特徴があるはずだ。

では、「食物をめぐる競合問題」をどのように解決することで人類は「人間」となったのだろうか。

まわりくどいようだが、人類のことを考える前に、もう少し手前に戻って考えてみよう。人類と共通祖先をもつ霊長類や類人猿のことだ。サルやチンパンジーはこの「競合問題」をいったいどのように解決しているのだろう。その特徴を知ることで、よりいっそう人類の特異性がはっきりするはずだ。そして、もちろん同じ霊長類として共通する性質を、人類も受け継いでいる可能性がある。

競合回避の3つの方法

ひと口に食物を取得するといっても「何を食べる(食べられる)のか」によって、競合の度合と解決策は変わってくる。例えば、果実が豊富にとれる森林に生息するのであれば、その果樹に登り、点でバラバラになって好きに食べればいい。でも少ししか取れないのなら、その場所を占有した者が優先して食べるだろう。また、動物をたくさん食べるなら、ターゲットが動くわけだから、場所を占有する意味はあまりなさそうだ。いつもうまくハンティングできるわけではないので、他の個体から分けてもらう必要もでてくるだろう。

 + +

では、まず一つ目の「解決策」。

ニホンザルなどの霊長類には、群れのなかで力関係や家系などに「優劣」をつけて、その序列が上にいるものが先に食べることで「競合」を避ける種がいる。グループのなかで個体間の順位が定まっているので、基本的には無駄な争いが起きないようになっているのだ。これをここでは「序列型の関係」と呼ぶことにしよう。ただし、この順位は必ずしも未来永劫にわたって不変であるわけではない。力の優劣が逆転する場合があるからだ。そして、その順位をめぐって、下位の者による反逆が起きる可能性が潜在的には常にある。

では、つづいて二つ目の「解決策」。

チンパンジーなどの類人猿は、さらに食物の「分配」をおこなう。それも親から子への贈与だけでなく、大人どうしでも食物を分けてあげることがある。ただし、いつでも積極的に行うわけではない。相手に要求されない限りは、けっして渡さない。しかも相手を身内に限定する。ケチな人間と同じだ。

ただし、一方的な贈与だけではこの関係は長続きしない(与え続ける方は割に合わないから)。そこで人間の場合は「贈与」に対する「返報」をする。いただいたご恩を覚えておいて、つぎの機会にお返しをするわけだ。もちろん、義理チョコなどでもわかるように必ずしも「情」がこもっているとは限らない。ただチョコを交換しあっているだけという場合も含む。そこでこのような互恵的なやり取りを「交換型の関係」と呼ぶことにしよう。

では、最後の解決策。

やはり生き物は基本的に自分優先だ。食べ物もコッソリ、ガッツリ、ひとりでいただくのが理想である。誰かにあげるにしても、その誰かは主に血縁関係にある者に限られる。しかし、人類だけが食事を皆で一緒にとろうとする。それも家族だけでなく、友人やお客さん、ときには友人の友人のような直接よく知らない人にまで気前よくふるまうのだ。

そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、実はこれは人類だけが到達した境地である。つまり血縁関係を超えた他者とも積極的に「共食=食の共有/分かち合い」ができること。これが進化の過程で身に着けた人類最大の解決法である。これを「共同型の関係」と呼ぶことにしよう。

人類は地球上で唯一「血縁関係を超えた他者」に対しても、食物を与え、お返しをし、ともに分かち合い、しかもそのことに喜びを感じることができる動物となった。これがなぜ他の動物では困難なのだろう。それはこのような互恵関係は、個体どうしが双方向に行って初めて成立するものなので、一方的な協力行為は自分の生存確率を下げることに他ならないからだ。

では、なぜ人類だけにこのようなことが可能だったのだろう?
そのことはまた次回、考えていきたいと思う。

(つづく)


【1】
マスク着用は感染防止よりも同調のため!? (論文タイトル:Why do Japanese people use masks against COVID-19, even though masks are unlikely to offer protection from infection?) 中谷内 一也(同志社大学 心理学部 教授)他

https://www.doshisha.ac.jp/attach/news/OFFICIAL-NEWS-JA-7768/142827/file/ExplanatoryMaterial.pdf

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