日立で渡辺温の聖地巡りした話(1日目)
2024年2月10日、渡辺温の93回目の命日だった。数え方あってるかな?
今までに温のお墓参りには2回行ったことがあるけど、一度命日にお墓参りに行って手を合わせてみたかったことと、助川町(現・日立市)の温に関する場所を巡ってみたいとずっと前から思って居たので、1泊旅行で行くことにした。
2月10日が土曜になることはこの先しばらくなく、これを逃すと中々そのチャンスは訪れないので、今回思い立って旅に出ることにした。
上野から日立へ
横浜在住の僕は上野まで出て、そこから特急ひたちに乗って温が10歳から慶應大学に入るまで過ごした茨城県の日立市へ行くことにした。都内に住んでいた温も当時はきっと上野から乗って実家へ帰省しただろうから、同じ道筋を辿って居るようでこの時点で楽しかった。
「横浜で朝まで遊んだその足で、実家へ帰る」という設定だということにすると更に楽しくなったのかもしれない。
全席指定。今回は上野でお墓に備えるお花を買ってみた。温の墓参りではあるけど、渡辺家のお墓に行くので「他の皆さんにお菓子のお土産を」という感覚が働いたから、ユーハイムのバームクーヘンを買ってみた。これも駅中をうろうろして、これがいい!という感覚があったから。全員分必要かと思ったけど「2個入りで十分」という感覚だった。
今回は楽しい旅行だから!とあれこれ考えず一番食べたい駅弁を買った。これで千円なのだからお得。列車に乗ったのは10時だったけど、聖地巡りをしてると大体ご飯を食べそびれるし、日立の飲食店事情もさっぱり分からなかったから、先に食べておくことにした。(が、僕がアレルギーで食べられない豆腐ハンバーグが入って居て軽く泣いた。美味しいんだけどね。こういうの事前に簡単に判ればいいのに)
眠る暇もなく日立に着いた。横浜からの道のりは3時間強だっただろうか。電車で来たのは2006年の18年振り二度目。18年って…あっという間でびびる。
貨物がたくさんある。温の兄、渡辺啓助さんは水戸中に通うために毎朝5時起きとかで貨物列車に乗せてもらって通学したのだとか。その頃の光景を何となく彷彿とさせる景色だった。
駅のホームを上がると海だった。温たちが暮らした海、この海をじっくり見ることも今回の旅の目的だったから早速それが叶ったことが嬉しかった。駅舎がガラス張りで眺めが凄く好い。
改札を出たら温たちのお父さんがセメント技師として招かれた日立セメントがよく見えた。東京深川でセメント技師をやって居たお父さんが、日立セメントに転職してこの町に来た、ということだそうです。
コインロッカーに荷物を預けたくて駅の中をうろうろするけど、案内板にはどこにもコインロッカーの文字がなくてすごく彷徨う。古いネット情報で海岸口と書いてあったから最初に此処に降りることにした。本当はお墓のある中央口を最初に出るつもりだったけど、思いがけずこちら側に降りることになったので、これは帰省する渡辺温と同じ足取りになってしまったなと愉しくなった。海岸口の方に彼らの実家があるから。
結局コインロッカーは見つからなくて荷物を持って中央口からお墓へ行くことにした。町の至る所からお父さんの日立セメントがよく見える。ああ、彼らはこんな景色をきっと毎日眺めて居たんだろうね、と思う。
お墓参りへ。
大体の方角を確認して気持ちの赴く儘、路地を曲がって歩いていく。すると戦前の建築物じゃないか?と思う建物を見つけた。倉庫なのだろうか。実際はどうか分からないけれど。
人通りのあまりない路地で、黒の山高帽と真っ黒なインバネスを着た余所者がこうして写真を撮っているのは不審に見えないかしら、と思いながら。
駅から15分くらい歩いて温のお墓がある鏡徳寺に着いた。今度は大丈夫だった。
今回はお花とユーハイムのバームクーヘンをお供えさせていただいた。薔薇の花をつけたのは、銀座のバーが好きでロマンチストな温には薔薇が似合うかなと思ったから。
本当に何となくだけどお父様とお母様に持って行ったバームクーヘンという感覚だった。なんとなく。
墓碑の文字を見るといつも軽い衝撃のような感覚と、それと堪らなく悲しくなる。ああ、この人生はもう終わってしまったんだなあと思う。そして確かに此処に生きて居たんだなあと思う。お墓の静けさと空の明るさもあり、静謐な気持ちになる。
写真に撮り忘れたけど一口分持ってきたカナディアンクラブを墓前で飲んだ。温とは何故か乾杯するって感覚は全然なくて、お墓にいる感覚は一度もしたことがなくて、けれども取り敢えず儀式のように僕はお墓の前でカナディアンクラブを一口飲んでみた。
お墓には人が全然来ないのもあり、今日は一人で来て居て誰も待たせて居なかったからゆっくり手を合わせて色々と感慨に浸って居た。94年の今日もこんな風に青空だったのかなあとか思いながら。
実家跡地へ
お寺から駅の方へ戻り、ホテルに電話すると荷物を先に預かってくれるというので、お願いした。このあと海を歩く予定だから助かった。
渡辺温、そして啓助の実家の現在の正確な住所って年表などには特に公開されていない(と思う)し、住所としては「助川町東海岸」で今のどこになるのかさっぱりよく分からない。webでは昔の「助川町」の地図は見れないし……。そういうわけで以前来た時は「東海岸っていうくらいだから海の側なのかな?」くらいの感じで海の道路を車で通ってもらって帰っただけだったのだが、藝文という冊子で実家跡地の情報が割と詳細に乗って居た。住所番地ではなかったけど、町名と地形と目印から僕は予め、おおよその目星をつけて、その場所へ行くことにした。
海岸口を出て少し歩くと跨線橋があった。温たちが居た頃もあったのだろうか? 何にせよ此処からもお父さんの会社がよく見える。
日立セメントは温たちの生活圏、何処に居ても目に入る感じ。
駅から少し歩くとカーブの先に海が見える。こういう場所に住んでいたんだなあ。
きっとこの先の行き止まりの場所だと思うんだけど。不審者に見えないかビクビクしながら歩く。
空き地のように見えるけど駐車場。此処じゃなく多分未だ此の先の筈。
線路の脇の道で道にはなっているけど割と木が生い茂っている。昔はもっと緑が多い道で、そういう場所を彼らは通学などで毎日通って居たのだろうか、等々想いを馳せる。
線路沿いの道。この溝というの? 古そうだけど、あの頃からあったのかな。どうなのかな。と思いながら一応撮影した。
どん詰まりの突き当たり。着いた。多分此処だ。「現在は駐車場になっている」というのは20年くらい前の情報だけど、同じだ。
駐車場は線路のすぐ脇で、線路を挟んで日立セメントが隣接しているという話も一致している。ということはこの景色も渡邊兄弟たちが見た景色と全く同じものなのかもしれない。
おうちの下は崖、という情報も一致してる。絶対此処だ。この先は崖になっていて落ちたら大変そうな感じ。もう少し前に行くと、崖下の集落に建っているお家の屋根も見えた。
そうして海も見える。もし隣の敷地の建物がなかったら、一面海を臨んでいたんだろうなあ。この下もすぐ崖だ。
此処の駐車場は月四千円で借りれるそうで、その金額で渡邊家跡地が借りれるんだ。は〜。とオタクの溜息を漏らした。
彼らはこの場所から海を見たことがあったかもしれない。自分が家を建てるなら、海に面したところに縁側か窓を作ると思うから。
激しい波の音と、微かな鳥の啼き声、それから時折通過する列車の音。渡辺温や啓助はこんな賑やかな音がする場所で育って居たのだろう。この波の音が音の作品のどこか深い場所に漂っているように感じた。
この敷地が全部家だったなんて、広いお家! やっぱり渡辺家はかなり裕福だと思った。いい所の子だ。お父さんは後に独立して会社を作ったそう。
そして此処のお家は元々、人の別荘だった場所だったらしい。確かに高台で海が見える場所って別荘に最適だ。
古そうな木。あの頃のお庭にもあったのかな? と思って撮影したけど、
後に実家写真を見直したら、こういう木は無かったかも。何処からか鳥の声が聞こえる。
後で写真を確認したら、此方側に兄弟が過ごした離れがあったっぽい。(色々情報間違ってたらごめんなさい。でもそんな感じだったような?)
温が帰省した時もこんな影がこの辺りに描かれたのだろうか。山高帽とインバネス。
ひとりしきいろんな角度で辺りの景色を堪能し、おそらく此の家から見たであろう景色を想像したり、家にいるときにどんな音が聞こえて居たのか、どんな環境であの感性が育まれたのかと想いを馳せたり、駐車場の敷地を満遍なく歩いてみたりなどをした。
どれだけでも飽きずに居られる、何となく落ち着く場所だった。だから離れ時と云うのが判らなかったけれど、一通り景色を眺めて写真も撮った! と思ったから海の方を探索することにした。
温の実家を出て海の方へ坂道を下って、人だけが降りれる細くて急勾配の道を見つけた。兄弟が海へ行くならこういう近道を使うだろうなと思って恐る恐るその道を降りて見る。google mapで確認できない道だから、本当に海まで続いているか確証はない。木が生い茂って居て薄暗くて古くからある場所なのか…少し怖かった。
しかし無事、その道は海に続いていた。道が開けて安心する。
”助川町東海岸”の海は今は防波堤が出来て、大きなテトラポットがずらりと並ぶ。そして工事中で立ち入り禁止だった。けれども防鮮やかで広くい海は防波堤越しでも見えた。そして空もとても広い。海の上の道路は前回訪れた時に一度通り過ぎた道だった。あの時やっぱり温の家の近くを通れたことが判り安心する。
写真には映って居ないけど、波がすごく荒くてとても高かった。勿論波の音も大きい。波がテトラポットを打つ強い音が繰り返しずっと響いて居た。
工事中で入れないけど昔は砂浜だったんだろうな。みんなで走り回ったりしたのかな。
海沿いを歩く。ずっと波の音が聞こえる。
今日が特別海が荒れているわけではなく、普段からこういう場所なのだろうか。
立ち入り禁止エリアだったので入らなかったけど、昔を彷彿とさせる景色。
この辺りでも兄弟たちは泳いだり遊んだりしたのかな。
此の時代の男子はどんな水着なんだろうと思って検索したら、大正14年の日立の海水浴場の写真を見つけた。
海からの帰りはあの細い道じゃなく、広い坂道を登ってみることにした。急勾配の急カーブで少し見通しが悪くてヒヤヒヤした。
海から上がってまた来た道を見下ろした。ここからも海が見える。遊んだ帰りはこんな景色を眺めたのだろうか。
海を見下ろす。どこまでも青くて広い海。波の音が聞こえる。海と共にある生活。けれども砂浜ではなく高台から臨むから海がとても広く見える。此の海に温の作品にある明るさの面を感じた。(僕は基本的に、表面的には明るく、けれど芯の部分に翳りがある作風だと捉えているから…)
実家跡地で気づいたんだけど、インバネスにひっつき虫が沢山付いていた。植物の種だね。全部取って捨てるつもりだったけど、実家のお土産?と思ってしまったので、幾つかは記念に持って帰ることにした。
休憩
日立の駅前でコスプレイベントやってた。山高帽とインバネスで目立ってしまうかと思いきや、もっと派手な人が沢山居たから問題なかった。
駅前の商業施設のフードコートのラインナップが知らないお店ばかりで気になる。商業施設マニアとしてセリアとガチャガチャコーナーを巡回してきた。紙を買った。
何だか知らないけど迚も疲れた。お墓参りの後くらいから体がずしっと重かった。霊的な何かなのかはわからないけど。けど悪いものとかそういう感じは全然ない。とにかく情報量が多いと思った。渡辺温が過ごした場所を巡って景色や空気、音を浴びているだけなんだけど、細胞が震えている感覚だった。感慨や感情や色々なものが整理できない。
お墓も海の景色も色々と感動して居た。
本当は、実家から温が通って居た助川小学校へ歩いて行ってみようと思ったけど、疲れてそれどころでは無くなってしまった。晩ごはんまでホテルで休憩することにした。
温の実家も海に面しているから、こんな風に暮れゆく海を毎日眺めていたのだろうか。そうだったとしたら僕も同じように日立の海を眺めて、彼らの日常を擬似的に追体験出来てるのだから何だか嬉しいな。
大正初めのの此の町は今よりずっと静かだったんだろうな。
日立のお魚を食べに行く
19時になったから晩御飯に行くことにした。温が食べたであろう、日立のお魚、お刺身が食べたかったから、Googleで検索した日立の魚を出すお店へ行ってみることにした。
19時なのに静かだよ〜。これ大正初期はもっと静かだったんだろうなあ。
お刺身食べた。ウイスキーも飲んだ。量が多くてこれだけで十分お腹いっぱいになった。特に説明はなかったけどきっと地元のお魚だと信じて…。
本当に静かな街だよ。車も通らない。
ウイスキーで酔っ払った。話す相手が居ないからXtterに温の話を連投して居たと思う。
夜のお散歩
駅の海岸口で海を見て居た。赤い線は海の上の道路。空と海が同じ色で溶け合って一面真っ暗闇の海。ただ波の音だけが聞こえる。ああ、この海だと思った。温の中にあるのは、この海なんだろうなと。「影」だとかを描いた彼は、少年時代にこの海を眺めて想像力を育んだんじゃないだろうかと。
すごく心地よく染み入るように眺めて居たのに、酔っ払ってたから、この日の分はこんな写真しかない。僕は日立の夜の海がとても大好きになった。ずっと見て居たかった。
海を見た後は駅の反対側へ。ここから商店街をぐるっと回って、入れそうな店があったら入りたいなあと思いながら散歩した。
結局僕が一人でふらっと入れる気がする店は見つからなくて、ホテルの方へ戻ってきた。色々疲れたし部屋で大人しくして早く寝ようと思った。
無事ホテルに帰ってきました。本当に誰かと話したくなる夜だったけど、
部屋に戻ってお風呂に浸かって大人しく眠れ……ませんでした。なんか興奮して、12時には眠れたはずなのに、3時まで眠れなかった。何か情報量が多くて処理しきれてない感覚だった。この日立市(旧助川町)の景色の全てが僕の心、魂を揺さぶり体の内側で共振し続けていて落ち着かなかった。自分の心がどういう状態なのかも理解らなかった。
二日目へ続く。
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