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本と育つ、本で育つ 本好きに学校は必要?

小学二年生で北杜夫の著作に夢中になった長男。彼はその時点で(又はそれ以前に)六年生の教科書も十分に読めたであろう。小学生時代、長期休暇を除いて家で宿題をすることが無かった。宿題自体は存在したが、授業時間内に終えていたのだ。「(授業中は)暇だから」と言っていたのを記憶している。
当時の私は「『義務』教育だから行くのが当たり前」と考えて、息子の登校に疑問を抱かなかった。だが今は、果たして彼に小学校は必要だったのだろうかと思う。成人した本人に小学校での勉強は意味があったかと尋ねてみると、「無かったね」と即答。やはりである。
義務教育の「義務」というのは「国や保護者が子どもに小中学校の教育を受けられる環境を整える」ことで、子どもはいかねばならないという意味でも、親が子どもを行かせねばならないという意味でも無いという。でも大半の子どもが登校するので、行かない子どもは「不登校」と呼ばれる。この言葉は「登校」を前提としており、「不」という否定を付けられることで、学校に行かない子はまるで「登校の義務」を果たしていないように感じるのだが、実際はそうではなかったのだ。どちらかというと「(本人が行きたければ行ける)権利教育」と言った方が本来の趣旨に近い気がする。
義務教育での授業は、数十人を席に行儀よく座らせて、教科書に載っていることを教師が口や板書で説明する、型にはまったものが大半だ。子どもの学習能力は千差万別であるのに、授業の内容(深度)も速度も一つ。それすらその時一緒の組にいる級友達の学習能力の平均と、担当教員の資質により揺れ動く。たまたまその授業の深さと速さに合致する学習能力の子どもには良いかもしれないが、あとの子どもに取っては自分に合わないものとなる。息子の場合、最初から最後まで不適合であった。これを六年間受け続けることは苦痛であっただろう!
私自身を振り返ると、毎年四月に配布されるその年の教科書は、その日帰ったら即読んでしまうのが恒例であった。自分で読む教科書は、新しい発見もありとても面白く、あっという間に読み終えてしまうのが残念だった。では授業は?というと、面白くなかった。自分で読んで理解できることを繰り返されたり、そこは書いてあることは分かったけれど興味は無い、という部分について長々と説明されるのは苦痛だった。息子も同様に教科書は配布されるとすぐに読了していたので、似たり寄ったりであっただろう。
子供が教科書を読んで得る知識は「表面的」だから、やはり学校でそれを深めることは大切という見方もあるかもしれないが、本当に今の学校の授業でそれが可能だろうか?むしろ受け身で聞き流すだけの授業の方が「表面的」で、自分で読んで考えて理解しようとすることこそ(最近よく耳にする)「主体的・自発的学習」ではないだろうか。
そもそも本来自由であるはずの人間、特に自由に伸び伸びと過ごしてこそ豊かな自分を形成できるであろう子どもが、六年間(中学まで含めると九年間)も画一化された学校に通うということじたい、大人になって考えると相当な強制である。学校の存在を否定するつもりは無く、「学校が楽しくて仕方ない!」という子どもにはぜひ学校生活を満喫してほしい。そういう子どもは学校で伸びるだろうと思う。でも、そうではない子ども、息子のように自分で読んで学んでしまう子どもは、別の形で学んでも良いのではないだろうか。有限の時間で学べることには限りがあり、学校に行くと膨大な時間をそれに割かれてしまうのだから。
逆に、どんな学校ならそういう子どもにとっても良いのだろうか?私の中で長らく理想の学校といえば、東京自由が丘にあった「トモエ学園」である。小学校3年生で「窓ぎわのトットちゃん」(黒柳徹子 講談社)を初めて読んでから今に至るまで、私にとって理想かつ憧れの学校だ。好きな席で好きな科目を学べる学校。自分ならどんなふうに一日を過ごすだろう?それをあたたかく見守る先生の素敵なこと!親になって、今でも存在するなら息子を通わせたいと調べてみたけれど、とうの昔に廃園となっておりとても残念であった。「『義務』教育」としてせっかく全ての子どもに対して用意するのであれば、個を潰さない、個が自分に合わせて自由に学べる場であってほしいと心から願う。
だいぶ散漫になってしまったが、息子である。現行の小学校にもう一度彼を入学させるのであれば、私は本人が望めば学校でなく図書館へ行かせるだろう。「不登校児」と呼ばれても構わないが、親としては「独学児」と言いたい。もし六年間、彼が充実した図書館で時間を過ごしていたら・・・!


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