『しおんは、ボクにおせっかい』立ち読み
これは、2020年2月19日にKADOKAWAより発売の「自己啓発系恋愛小説」、『しおんは、ボクにおせっかい』の冒頭部分をWeb用にレイアウトしたものです。
スマホ片手にお楽しみいただけると幸いです。
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第1話
しおんとの出会い
――なぜ、スポーツには勝者と敗者がいるのか
つい先ほど、彼女に両手一杯の花束を届けたボクは、その足で静岡県富士市の自宅に戻るために仙台駅から上りのはやぶさに乗り込んだ。
はやぶさとこだまを乗り継いで新富士駅までの所要時間は三時間強。
少年時代、やまびこに乗るたびに母がしていた口癖をふと思い出す。
「新幹線は本当に便利ね。
昔は、仙台から東京の移動だけで七時間以上、東京から富士市への移動も三時間。
移動だけでほぼ一日潰れてたそうよ」
母の言うとおりだ。
新幹線がなければ、宮城はやすやすと行けるところではない。
ボクは、彼女に届けた花、視界を覆うほどの「シオン」を思い浮かべながら、はやぶさの座席に背中を預けて安堵にも似た吐息をついた。
あのシオンの紫色は本当に鮮やかだったな。
紫色は俺のラッキーカラーだし。
そういえば、そんな「おとぎ話」にすがっていた時期もあったっけ。
そこまで思考したところで、ボクはふいに彼女と約三年前に富士本町のはずれにある隠れた名店、中華料理の八太楼で交わした会話を思い出した。
「ラッキーカラー」の一語が引き金だった。
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「このパワーストーンの紫は俺のラッキーカラーなんだ。
引き寄せの法則的にも、ラッキーカラーを身に着けるといいんだよ」
すると、ボクの一言にしおんは眉根を寄せた。
「また、引き寄せの法則か。で、次はこう言うんでしょう。
今や、世界中の最先端の科学者、物理学者、脳科学者といった学者の一番の関心は引き寄せの法則だ。
いや、量子力学の世界では、すでに引き寄せの法則の存在は証明できているって」
しおんの反応に、ボクはいくぶん胸が悪くなった。
「なに、そのムカつく言い方。
俺が受講した引き寄せの法則セミナーではそう言ってたんだよ。
少なくとも俺には、講師の話は十分説得力があったけどね」
「説得力があったんじゃなくて、雄大(ゆうだい)はただその話にすがりたかっただけなんじゃない?
まあ、科学や人智を超えた『なにか』にすがるのは決して悪いことじゃないとは思うけど。
実際、世界中の人がそうやって生きているわけだし、その気持ちは誰にも否定できないけど」
「だから、科学を超えた、じゃなくて、引き寄せの法則は科学そのものなんだよ」
「ふーん。じゃあ、その論文を私に紹介して。
ぜひ読んでみたいから」
「え!?」
「まさか、論文の一本も読まずに『科学的な証明に成功してる』って言ってるの?
セミナーの講師はその論文を教えてくれなかったの?」
しおんのセリフには多少の不快感を覚えたが、そうした主張が彼女の口を突いて出てくる理由もわからないでもなかった。
しおんは、卒後臨床研修、平たく言えば研修医から製薬メーカーに転職した経歴の持ち主だ。
すなわち、医師から研究者になった人間である。
そして、「科学の証明は、論文の発表と他の科学者による追試の成功で初めてなされるもの」が彼女の口癖であることを思い出した。
うーん。
完璧にしおんの心の地雷を踏んじゃったな。
引き寄せの法則の論文か。
確かに、読んだことも聞いたこともない。
でも、科学がすべてじゃない。
あるものはあるんだ。
ただ、人智がそこに追いついていないだけだ。
ボクが心中で呟いていると、まるでしおんは、それを聞いていたかのようにボクの言葉にかぶせてきた。
「確かに、科学がすべてじゃないよ。
だって、現時点で人類最大の天才と評されているアインシュタインでさえこう言ってるんだから。
私たちはなにもわかっていないって。
実際、私はタイムマシンだってそのうちできると思うし、この地球上にはそのタイムマシンに乗って来た未来人がいて、今この瞬間もせっせと歴史を書き換えていてもなんの不思議もないと思ってるよ」
科学信奉者のしおんから飛び出したとんでもない非科学的な話にボクが驚いていると、彼女は言葉をつなげた。
「でもね、引き寄せの法則を精神世界、スピリチュアルなものとして尊ぶのは個人の自由だけど、そこに科学を持ち込むのであれば、論文がなければ話にならないでしょう。
そして、私は仕事柄、主要な論文の多くに目を通しているけど、引き寄せの法則の存在を証明する論文なんてただの一本も読んだことないわよ」
「……。なるほどね。
引き寄せの法則はスピリチュアルなものとしては確実に存在しているわけだから、そこに無理やり科学的な裏付けをする必要はないってことか。
ましてや、科学はまだ発展途上なわけだし」
「確実に存在しているって、その確信がどこから来るのかはわからないけど、雄大の言うとおりだと思うよ」
「確信は当然あるさ。
だって、成功者はみんなこう口を揃えてるじゃないか。
願えば叶うって」
「だけ?」
「え?」
「だから、成功者は願っている『だけ』なの?」
「どういう意味?」
「この話、前回もしたけど……。んー、まあいいか」
しおんはつかの間黙考すると、再び口を開いた。
「ねえ、雄大。ちょっと考えてみて。
スポーツの世界には、必ず勝者と敗者がいるよね。
これって不思議じゃない?」
「どうして?」
「だって、どちらも『勝ち』を願っているのに、敗者の『勝ちたい』という願望は実現していないよね」
言われてみればそのとおりだ。
「雄大。私がこのあいだ、じゃんけんの話をしたの覚えてる?」
「ああ」
「その話とも共通するけど、願えば、本当にその願望は叶うのかな?」
「叶うよ。ただし、引き寄せの法則を正しく実践していればの話だけどね。
そうだ。今のスポーツの例もそうだよ。
引き寄せの法則を正しく実践したほうが勝つんだ。
それで説明がつく」
すると、しおんが考え込むときの表情を作り、そのあとに言葉を放った。
「うーん。今日のところはこれくらいにしておこうか。
今私が思っていることを言うと、なんか喧嘩になっちゃいそうだし」
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これは、ボクとしおんが二十八歳のときに交わした会話だが、彼女との出会いはそれより十七年さかのぼる。
ボク、兼松雄大(かねまつゆうだい)は静岡県富士市の生まれだが、三歳から十歳までを父の転勤に寄り添う形で宮城県岩沼市で過ごした。
ボクが富士市に戻り、西北小学校に転校したのは小学校五年生のとき。
母は、ボクの東北訛りを心配していたが、それは杞憂に終わった。
東北弁が話せるというボクの「特技」は吉と出て、すぐさまクラスで多くの友達に囲まれるようになった。
友達の中には女子もいたが、まだ異性を意識する年頃でもなく、その中のある小太りの女子とまるで男兄弟のように親しくなった。
それが「佐々木しおん」だった。
ただし、出会ってすぐに友達になったわけではない。
きっかけは、しおんを「デブ」とからかう男子からかばってあげたことであるが、それからすぐに陰湿極まりないいじめが勃発し、二人の距離は一気に縮まることになる。
それ以来、学校が終わるとボクたち二人はすぐ近くを流れる富士川に向かい、毎日「船レース」を楽しむようになった。
船レースとは、単に河原に落ちている木材を拾って川に流し、どちらが先にゴールするかを競うものだが、周囲の友達がみんなポケモンに夢中になっている中、ボクとしおんは極めて原始的な遊びに興じていた。
もっとも、「レース」という以上、二人とも真剣で、どの程度の大きさ、重さの木材が一番速く流れるのか、随分と知恵を絞り実験を繰り返したものだ。
また、その富士川の近くにある岩本山で、夏休みには二人でカブトムシやクワガタを獲って、泥まみれになって無我夢中で遊んだ。
ボクたちは、いつも真っ黒に日焼けしていた。
そうやって同じ時間を共有しながら、ボクとしおんは互いになくてはならない存在になっていった。
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第2話
しおんとの別れ
――願うだけでは叶わない
とある日。
富士警察署のそばにある瀟洒なイタリアンレストランのダディーダで二十八歳のしおんが言った。
「ねえ、雄大。この世で一番強い願いってなんだと思う?」
ボクは、しばしの黙考のあとに答えた。
「やっぱりお金じゃないの?
十人に欲しいものを訊いたら、九人が『お金』って答えると思うけど」
「それは、この世で一番強い願いじゃなくて、この世で一番多い願いでしょう」
「そうか。となるとなんだろう。
……。あ、わかった! 健康だ!
健康がすべてじゃないけど、健康を失ったらすべてを失うからね」
「かなり正解に近づいてきたかな。
まあ、私の意見が正解とも限らないからもったいぶらずに答えを言うと、私は、愛する我が子が癌に侵されたその両親の『子どもの癌を治したい』という願望。
これより強い願望はないんじゃないかって気がするの」
「た、確かに。
それは、癌を自分が代わってあげてでも治したいと願うだろうな」
言いながらボクは、三歳の頃、道路で寝そべって遊んでいたら、バックしてきた軽トラックの下敷きになり、その現場に居合わせた母が、その軽トラックを持ち上げてボクを助けたという昔聞いた話を思い出していた。
いわゆる「火事場の馬鹿力」である。
こんな例を持ち出すまでもなく、この世で一番強いのは間違いなく親が子を思う気持ちだろう。
しおんがボクの言葉を引き取る。
「じゃあ、『子どもの癌を治したい』という両親の願いは叶う?」
ボクは、思わず生唾を飲んだ。
「……。いや、すべて叶うことはないだろうね。
残酷だけど、子どもが亡くなって、残された両親は悲しみに打ちひしがれる。
こんなケースは掃いて捨てるほどあるんじゃない?」
「そう。この場合、ありえない強さで親は願ったはずなのに、まったく願望は叶ってないよね」
「そうだけど、ちょっと待った。
ひょっとしてしおんは、引き寄せの法則を否定したくてそんな話を持ち出してるのか?」
「ううん。全否定をするつもりはないけど、盲目的に信じている雄大に違和感を覚えるの。
だって、雄大、言ってたよね。
引き寄せの法則を信じれば、宝くじも当たり放題って」
「うん。セミナーの講師がそう言ってた。
ただし、引き寄せの法則を信じれば、じゃなくて、引き寄せの法則を正しく実践すれば、って話だけどね」
「だけど、ジャンボ宝くじの場合、一等の当選確率は一千万分の一よ」
そう聞いて、ボクは思わずほくそ笑んだ。
「しおん。それが常識に捉われている人間の発想なんだ。
引き寄せの法則の世界では確率なんて意味を成さないんだよ」
「それは、セミナーの講師がそう言ってたの?」
「うん、まあね」
「じゃあ、今度その講師に会わせてくれる?
その人とじゃんけんをしたいから」
「じゃんけん? おいおい、突然なにを言い出すんだ」
「まあ、聞いて。
その講師と十回じゃんけんをして、私がすべて負けたらなんでもするよ。
『服を脱いで逆立ちしろ』と言われたらやってみせるし。
雄大、私、大真面目だから」
しおんのたとえに、ボクは思わず口角を上げながら言った。
「真面目とか不真面目じゃなくて、しおんがなにを言いたいのかがわからないよ」
「常識に捉われている私の考えでは、その講師が私の挑戦を受けて立つのはたやすいはず。
だって、一千万分の一の宝くじが当て放題の人なら十回連続でじゃんけんに勝つ、つまりは、たった千分の一の確率の勝負に勝つなんて朝飯前でしょう」
「いや、だから確率なんて関係ないんだよ。
引き寄せの法則はそんな既成概念は超越したものなんだ」
「確率が関係ないんだったら、じゃんけんの勝敗を分けるのはなに?」
「それは、勝ちたい、という願望の強さだろう?」
「だったら、なおさらその講師が私にじゃんけんで負けることはありえないわね。
だって、私は一ミリも勝ちたいと思ってないもん。
ただ、無作為にグー・チョキ・パーを出すだけだし」
そう言ってえくぼを作るしおんを見て、ボクの胸中に波が立った。
講師としおんのじゃんけんの勝負。
講師は、十回連続で勝てるのか?
…………。
いや、勝てるはずだ。
勝ちたいと願えばその願望は叶う。
言い換えれば、そうした願望のない者は、何回じゃんけんをしても勝てるはずがない。
強い願望は現実になるんだ!
黙考を終えたボクは、自ら導き出した結論をしおんに伝えた。
「ふーん。強く願えば、じゃんけんで負けることはないのね。
でも、雄大、さっき言ってたよね。
どんなに強く願っても、愛する我が子の癌は治せないって」
「いや、それは比較するものが違うだろう」
「そう? 私にはまったく同じ比較だと思うけど。
どちらも、自分の意思ではどうにもできないという点ではね。
百歩譲って、その講師が私に十回連続で勝つようなことがあっても、それは引き寄せの法則じゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「強いて言うなら、私が次に出す手を読めるという予知能力じゃない。
実際、この世には予知能力がある人がいてもまったく不思議じゃないと思うし。
ただ、その講師が予知はできないことは明白ね。
だって、そんな能力があったら、株やら競馬やらなんでも当て放題でしょう。
そんな金持ちがセミナーの講師をするかな。
南国に島でも買って悠々自適にバカンスを楽しんでると思うけど」
「科学」とも言うべき引き寄せの法則を予知能力なんて「オカルト」と同列に語り、さらにはボクが敬愛する講師をまるで詐欺師扱い。
ボクは顔がほてるのを感じた。
「雄大、ごめん。怒らせちゃったみたいだね。
でも、取り繕うわけじゃないけど、私は『願う力』を全否定してるわけじゃないよ」
「嘘つけ。歯牙にもかけていないように聞こえるぞ」
「だから、そう思ったのなら謝るから。
私が言いたいのは、どんなに強く願っても、その願望に『あるもの』を掛け算しない限り、その願望が現実になることはないってこと」
「あるもの?」
「うん。要するに、子どもが癌に侵された親は、願う力は凄まじいけど『あるもの』がゼロだから子どもの癌は治せないの。
ゼロを掛ければゼロでしょう?」
ボクは、話題が引き寄せの法則から突然数学に変わったことに戸惑いながらも傾聴するほうを選んだ。
「引き寄せの法則で宝くじは当たらない。
仮に当たったとしても、それは一千万分の一のルーレットがたまたま自分のところで止まっただけのただの偶然。
だけどね、雄大」
「なに?」
「私は、宝くじは当たらないとは言ったけど……」
「…………」
「十億円を貯めるのは不可能だ、なんて一言も言ってないよ」
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小学校の卒業式が終わった翌日、ボクとしおんはチェーン展開しているファミリーレストランにいた。
まだ小学生だったボクのこづかいで入れる店ではなかったが、母にしてみれば卒業祝いのつもりだったのだろう。
ボクはもらった五千円をポケットに突っ込み、談笑しながらしおんとストロベリーパフェを頬張っていた。
今にして思うと、あれがボクの初デートだったのかもしれない。
しおんが、長いスプーンを魔法使いのように振りながら言った。
「中学に入ると、雄大とはクラスが分かれちゃうかもね」
「そんなの、どうでもよくない?」
「まあ、そうだけど……」
しおんは、スプーンの動きを止めて続けた。
「それに、雄大だけじゃなくて、色々な人とクラスが分かれるよね。
せっかく、二年も一緒だったのに」
しおんは、パフェを見つめるようにうつむいている。
その様子に、さすがに鈍いボクも異変を感じ取った。
「随分気にしてるけど、クラスが分かれたくない奴がいるのか?
ああ、児島礼子か?」
「うん。礼子と別のクラスはイヤだよ。
でも、ほかにもいるよ。分かれたくない人」
「誰?」
「……。それより、雄大。
早くパフェ食べてゲーセン行こうよ」
「ゲーセン? なんだよ、お前らしくないな。
やりたいゲームでもあるのか?」
「雄大は、ただ付いてくればいいの」
その後、ボクたちはゲームセンターでプリクラを撮った。
初めてのツーショット写真の中で、ボクとしおんはひまわりのように顔をほころばせていた。
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中学に入学すると、クラス分けの結果、気の毒なことにしおんは児島礼子と分かれてしまった。
ただ、ボクとしおんはまたまた同じクラスになった。
「ねえ、雄大。これってキセキだよね!」
ボクたちの学年は四クラスだったので、同じクラスになる確率は四分の一。
今にして思えば取るに足らない話だが、まだ確率という概念がなかったボクにも「キセキ」という言葉が一番しっくりときた。
そして、ボクはテニス部、しおんは陸上部と部活動が違ったので、しおんと過ごせる時間は減ったが、その不足を「キセキ」で取り返すかのように、休み時間は常に一緒に談笑していた。
また、ボクは日曜日のたびにしおんを自宅に呼んで、二人でギターの練習をした。
ボクはメキメキと上達していったが、ボクよりも器用なはずのしおんのギターの腕前は一向に上がらなかった。
ボクが出した課題曲の練習もしてこない。
それでもしおんは、いつも快活に笑いながらギターを弾くボクを見つめていた。
ボクとしおんは、小学校のとき以上に濃密な時間を共有した。
そんなボクたちに、再び「キセキ」が舞い降りる。
二年生のクラスも同じになったのだ。
しおんと出会った頃と、それから三年が経過したそのときの最大の相違は、ボクの身長がしおんの身長と並んでいたことだ。
しおんは女子としては大柄で、小学校卒業時にはすでに百六十センチ近くあり、一方のボクはさほど背は高くなかった。
しかし、中学入学と同時にボクの身長がみるみると伸びたため、中学二年生の春に二人の身長が同じになった。
これまでは見上げていたしおんの瞳が、ボクの目線と同じ高さにある。
「雄大。ついに私に追いついたね、身長」
しおんは破顔一笑したが、ボクには彼女の笑顔の理由はわからなかった。
「それよりお前、陸上部で厳しいトレーニングしてるのに一向に痩せないな」
「あ、雄大。罰金、百円」
「なんで罰金なんだよ」
「今のセクハラ発言の医師料」
「イシリョウ?
セクハラの場合はイシャリョウじゃなかったっけ?」
そうして迎えた中学二年生の夏休み。
ボクは永遠に忘れないであろう日を迎える。
その日、ボクはしおんに自宅に呼び出された。
工場横のしおんの住む団地に自転車を漕いで行くと、そこにはしおんの母もいた。
そして、衝撃の一言はしおんではなく彼女の母から飛び出した。
「しおんが、二学期に転校することになって」
「え!?」
「しおんのお父さんが転勤することになって。
兼松君も小学校四年生まで住んでいた宮城県の岩沼市に」
「…………」
「兼松君のお父さんは元々富士市の人で、期限付きで岩沼市に転勤したけど、実は私たちは富士市とは縁もゆかりもないの」
「…………」
「私たちは元々岩沼市の人間なの。
そして、しおんのお父さんがこの富士市に転勤を命じられたんだけど、しおんの高校進学のことを考えると、岩沼市に戻るならこのタイミングしかないから会社に事情を説明して。
それで、私たちは岩沼市に帰ることになったのよ。
残念だけど、もう富士市にはいられないの」
その後も母親は言葉をつなげていたが、ボクにはよく理解できなかった。
ボクの父としおんの父が同じ会社ということも知らなかったし、ボクの場合は静岡県富士市が地元で宮城県岩沼市は父の転勤先で、でも、しおんの場合はそれとは逆で……。
いや、中学生の頭ならこの程度のことは理解できたはずだ。
すなわち、それだけボクは混乱していたのだ。
わかったことはただ一つ。
しおんが遠くへ行ってしまう。
たとえ新幹線があろうとも、幼少時に夏休みや冬休みのたびに両親と一緒に岩沼市と富士市を往復していたボクは、岩沼市がたやすく行けるところではないことを誰よりも理解していた。
少なくとも、子どもが一人で往復するのは不可能に思えた。
ボクにとって、しおんが宮城県に移り住むということは、彼女が外国に行ってしまうのと同義であった。
ボクは、しおんとはもう一生会えないんだ。
しおんにギターを聴かせることもできない。
なによりも、ボクに身長で並ばれたときに作っていたあのえくぼももう見られない……。
しおんの母が言った。
「本当に、今までしおんと仲良くしてくれてありがとうね、兼松君」
「……。お、おばさん」
「なに?」
「あ、あの……。は、恥ずかしいことをしてもいいですか?
お、男が一番してはいけないこと……」
すべてを悟ったしおんの母は、優しく声をかけてくれた。
「どうぞ。それに、恥ずかしいことじゃないわよ、兼松君」
そのセリフが終わると同時にボクは泣いた。
声を上げて泣いた。
父の「男は人前で泣くな」という教えを生まれて初めて破った瞬間だった。
涙で滲んだ光景の中には、しおんが嗚咽している姿があった。
ボクは、その日のことは恥ずかしくて両親には話せなかったが、別の話題をする気力もなく、しかし、弟と同部屋では泣くこともできずに、とにかく感情を押し殺すことに全力を注いだ。
引っ越しの前日、しおんが吹っ切れたような爽やかな笑顔でボクの家にやってきた。
一輪の花を持って。
「はい。これ、お別れのしるし」としおんが言った。
「なに、この花?」
「シオン」
「え?」
「私と同じ、シオンって名前の花だよ」
「そうか。じゃあ、早速花瓶に飾るよ」
「…………」
「元気でな、しおん」
すると、しおんは一瞬、涙を押し込めるように目を閉じたが、すぐにトレードマークのえくぼを作った。
「大人になったらまた会おうね、雄大!」
その夜、ボクは花瓶に挿した一輪だけのシオンを見つめていた。
しおんと同じ名前の花。
ひょっとしたら、しおんの名前の由来はこの花なのかもしれない。
いや、きっとそうだ!
だから、しおんはシオンをプレゼントしてくれたんだ!
ボクは、このときそう考えた。
その推理がどれほど稚拙なものであるのかに思いを馳せるには、ボクはあまりに子どもすぎた。
《第3話へ》
第2話までのさわり部分をアップしましたが、この短い物語の中にも、すでに3つほど伏線が張られています。
個人的に、娯楽小説の醍醐味は伏線の多さと巧みさ、そして、それらが後半で次々に回収されていく驚きと爽快感だと思っておりますので、ぜひ書籍のほうでその「驚き」と「爽快感」を味わっていただけると幸いです。
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