お母さんが小さな頃は
「お母さんがみみちゃんみたいに子どもだったとき、みんなは毎日はたらいてたの?」
「え!そんなに前じゃないよ」
舌ったらずで無邪気な質問が放り投げられると、母は少し慌てて否定した。一瞬立ち止まる私たちを横目に何台もの車が滑るように走って追い越してゆく。車の燃料は様々で、ふわりと花の香りがする時は大体油で走っていることが多い。最も主流なのは二酸化炭素をエネルギーとして消費し、酸素を排出するタイプだ。
「ふーん。じゃあ、おじいちゃんは?」と、幼い声が繰り返す。
「おじいちゃんが小さな頃は、みんな毎日働いていたかもしれないね。それでも全員じゃなかったと思うけど、、どうして?」と、母は私の顔を覗き込んで様子を伺った。
「今日、学校でシゴト体験やったの。なんで仕事なんてあったんだろうね?」
「あー昔の暮らし体験か。お母さんも詳しくはわからないけどね、生きるために週5日、毎日8時間働いてたんだよ。土曜と日曜は休み。だから学校も5日行かないとだったんだよ〜」
みみは驚きで固まった。
「おじいちゃんも?」
「おじいちゃんは週3日位働いていたかな。ママが生まれる前はもっと働いてたみたいだけど、やっぱり時代が変わったね。忙しい時は残業もあったし、あ、残業は8時間以上働いたときのこと、今では考えられないけれど。」母はゆっくりと息を吐くように、途中から独り言のようにつぶやいた。
「残業は仕事ができない人がする、って先生が言ってたよ。仕事ってやだね。家族と離れ離れで寂しいじゃん。」
「まあ、それが趣味って人もいたね。生き生き働いている人もいたし、定年退職したら抜け殻みたいになっちゃう人もいるよ。」
「かわいそう、仕事がそんなに大切なんて。忙しくてきっと自分の人生がわからないんだね。」そう言いながら母を見上げると、母は悲しいようなやるせないような感情を胸の奥に抑えながら、控えめに微笑んだ。色づいた木々が風に揺れて、季節変わる匂いがする。私は鼻から大きく息を吸って、秋を身体に取り入れた。
カーテンを開け放した窓から、柔らかな光が差し込む。また朝がきたのか、と暖かなベッドとの別れを惜しまざるを得ない。私は一通り朝のことを済ませてから、目覚めのコーヒーをふうふうと冷ましながらPCの電源を入れた。
小さな頃の思い出は、夢か現実かわからなくなるときがある。私の母は「最後のシゴト世代」と呼ばれる年齢だった。今でも働いている人はいるけれど、本当にお金が必要な人かよっぽどの物好きだ。ほとんどの人が、昔は仕事とされていたことを無銭で行っている。学校の先生も含めてみんなボランティア。ここ50年でお金の価値はみるみる下がり、人生においては自己実現と他者貢献の2つこそ大切にすべき、という考え方に変わったからだ。人はお金のために働いていたというが、本質的には自分のため、誰かのために働いていたのかもしれないと今では思う。母の時代もお金を対価にシゴトをしている人は肩身が狭くて、世間からはあまりよく見られていなかった。そんな時代に母が働いていたと知ったのは、自分が人生について考え始めてからだった。生活面は補助がもらえたはずだから、優しい母はきっと私に少しでも贅沢をさせたかったのだろう。いまさら真意を確かめる術もないから、私はたくさん愛されていたのだということにしている。
電柱がなくなり空が広がったと聞くけれど、窓の外を眺めてもどれほど狭いものだったのか、今の私には見当もつかない。地震大国と呼ばれたこの国が科学の進歩で、昔からの建物を大切に使い続けられるようになってからおよそ100年が経った。地球環境の保護を第一に、今では道路やトンネルもメンテナンスが中心と聞いたら、昔の人は驚いてしまうだろうか(もっと以前は環境保護を重要視していなかったし、次々と建物が立つので10年で街並みが変わるとも言われたらしい)。その分、新しく建物や道路を作る技術がすたれて将来必要な時に建設することができなくなってしまわないように、建設に限らず、あらゆるデータは国家レベルから個人レベルまで出来る限り保存されている。現代では、殆ど自動的に物資が運ばれ、住居が供給され、生きるために必死で働かなくても生きてゆくことができる。生活にも、将来にも、不安を抱くことはほとんどない。その幸せの有り難みが分からない程に、今の私は幸せなんだろう。死ぬまでぼーっとしてもいい、趣味に高じてもいい、ボランティアをしてもいい、そして働いてもいい。先人たちが作ってくれた余白と選択肢に、今の私は生かされている。
青空を背にした太陽に向かって「今日は散歩でもするかぁ」と、大きな伸びをしてから、PCの前に座った。