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学ぶためには、一度カッコ悪い自分に気づく必要がある

友人の家に何人かで泊まりに行った時、実家暮らしで料理を1ミリも経験したことのないAくんがこんなことを言い出しました。

「材料と最終の味は知ってるんだからカレーライスくらいかんたんに作れる。俺に任せてよ」 

彼は、完成形と材料がわかっていれば作るのはそんなに難しいことじゃないと信じていたのです。

この料理未経験の自信家の言葉を、
僕を含めた友人たちはどう受け止めたでしょう?

もちろん、誰もその言葉を本気にしませんでした。

じっさい、彼に今晩のカレーライス作りを任せれば、むちゃくちゃな物ができあがるに違いないと誰もが思ったのです。

Aくんが「その前にちょっとトイレ」と言って出て行ったので、これ幸いと僕らはいったい彼に任せたらどんなことになるだろうかと妄想を膨らませました。

彼はフライパンに油を敷くことを知らないかもしれないし、カレールーをいつ使うのかを知らないかもしれません。それ以前にまともに野菜を切れるのか?

あれこれ想像したものの、けっきょく面白そうだからと僕らは彼にカレー作りを任せ、後ろから見守っていることにしました。

トイレから戻ってきたAくんのクッキングタイム開始です。

ところが…
キッチンに立った彼は固まり、なかなか動きません。

何かしようとしては手を元の位置に戻すことを繰り返しています。何か膨大な情報量を浴びて混乱しているような感じでした。

で、しばらくしてから僕らの方を振り返り、
「で、何からすればいいんだ?」と尋ねてきたのです。

僕らはトイレにタオルがないことを知っていて、彼がハンカチをいつももっていないことも知っています。そして、彼の手が濡れていないことにも気づいていたので口を揃えてこう言います。

「まずは手を洗おうか」

結局、僕らの中で一番料理のできるメンバーが手取り足取り手順を教えてくれて、おいしいカレーライスができましたとさ。

<レシピに書いてあること>

冒頭の話から何が言いたいかというと。

見聞きすればできると思っていたことも、体験すれば自分がいかに何も知らないか、人は確実にそのことに気づきます。

人は知らないことを知らない。

そのせいで、学習が止まってしまいます。もうわかったと思う相手の話に人は聞く耳を持ちません。

これは随所で見られることですが、特に人がコミュニケーションの技法や思考法の知識を学ぶとき、見聞きしただけで使えるような気になってしまうことが非常に多いと感じます。

ある料理をマスターするとき、以下の3つの要素について細かく誤解の余地がないくらいの解像度でわかっていなければいけないのと同じことがコミュニケーションや思考法についてもいえます。

  1. 材料

  2. それぞれの質と量

  3. 実行の順序

たとえば、飲み会を上手に盛り上げる人からそのやり方を盗みたいと思ったら・・・

細かく言うと長くなりすぎるので、気になる方はぜひこちらの本を読んでみてください。


<学びを一段深める読書会の進め方>

人は実体験でなくとも、細かく、それを頭の中のイメージと共に体も使って再現しようとすると同じように学習することができます。

なぜなら、実体験するときと同じ神経回路を使って、頭にありありと描いた情報を処理するからです。

面白ベースでは、本を15分読んで学んだことをプレゼンするペア読書会がよくその場で発生します。

先日は、コミュニケーションの仕方の本の話や仕事選びの本の紹介がありました。

このペア読書会で個人的に気をつけているのは、説明した技法などを使っている場面を細かく想像せざるを得ないように質問していくことです。

時にはデモンストレーションをしてもらうこともあります。

料理では謙虚な人も、なぜかビジネス書などを読むときには料理未経験の自信家みたいになるからです。

深い学びを得るには、まず自分がぜんぜん知らないことを知らねばなりません。

そのためには、本の中で説明されている現象が彼の目の前で起きる様子を体感する必要があります。

面白ベースは、料理未経験の自信家にとって学ぶとはどういうことかを再定義し直せる場所です。

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