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大和の芸能を参考に?

様々な本などによると組踊は冊封使を歓待するために考え創られたものとの説明が多い。
と言うことは冊封使のための芸能であることは明白。
冊封使にどう楽しんでもらうかを考え抜いて創られたはず。
しかも琉球王国としては、大和との繋がりを隠そうとしていた・・・と言うよりは清との関係の方が大事だった。
それなのに、大和の芸能、具体的には 能 や 狂言 、 浄瑠璃 などを参考にして 組踊 を創ったのだろうか?
わざわざ新たに造らずとも 能 を演ずればすむことだ。
甚だ疑問である。
大和らしい芸能を披露されても冊封使が喜んだとはとても思えないし、冊封使が清に戻って大和芸能みたいのを見せられたと報告されても困るだろう。

能をしていた士族がいたとの記述は多いが、もしかしたら京劇などの清の芸能を嗜んでいた士族の方が多かったかもしれない。
だとすれば、これまでの定説に疑問が生じる。
組踊の上演は琉球王国が清との関係を良好にするためのひとつの手段であり、琉球王国がいちから創り上げたものと考えるのが自然だと考える。
侵略をしてきた大和よりは、友好な関係を築こうとした清の芸能から学び、琉球独自の芸能を創ろうとしたのではないだろうか。
清へ朝貢もしていたから尚のこと。

図らずも戦前戦後と琉球芸能の魅力を見出したのは、残念ながら沖縄の人より大和の人の方が多いと聞く。
となれば研究も大和からの視点が多いであろう。
そうすればどうしても大和の古典芸能である 能 との比較も多くなったのは仕方のないこと。
中国の芸能のことはほとんど知らないが、中国の故事はかなり多いし大和よりはるか昔から文字もあった。
あらゆる記録も大和の比ではないであろう。
したがって清から学べる事柄は芸能ばかりでなく多くあったはず。
これからはもっと中国の芸能との比較が必要ではあるまいか。
きっと「銘苅子」と「羽衣」との比較みたいに、中国の芸能でも比較対象があると思われる。

そう思うと、沖縄戦で多くの犠牲があったことが残念でならない。
人 であれ
資料 であれ