来た時よりも、幸せになって帰って欲しい
東京にある展望台が私の職場です。
まだ失敗も多い入社1年目の私、仕事にもやっと慣れてきたところです。その日も私は、展望台を訪れたお客様に元気よく撮影のお声かけをしていました。
平日の午前中、人通りはまばら。そんな時「ガラス床」の脇に佇んでいる70代くらいの男性をお見かけしました。
ガラス床とはその名の通り、床一面ガラス張りの人気コーナー。ガラスの上に立つと足元には迫力ある眺望が広がります。気分はまるで空に浮いているよう。
ところがその男性はガラスの上には立ちませんでした。上半身を乗り出して下の景色をのぞき込むようにしています。私は近寄り、お声かけしました。
「このガラスはとても強いので、人が乗っても大丈夫ですよ」
「そうかい、ありがとう。頭では分かってるんだけどね、どうも高いところが苦手で。ガラスの上に乗れたらもっと良い景色が見られるんだろうにね」
男性は残念そうな顔で苦笑いしています。
「それでしたら、ちょっとこちらへいらしてもらえますか」
私はガラス床の反対側へとご案内しました。
「ご覧ください。ガラスの上に乗らなくても見る角度を変えるだけで、色々な景色を眺めることができるんです」
「ほんとだ! こんなに変わるんだね! いいこと聞いたよ!」
男性の表情がパッと明るくなりました。
それから手に持っていたポーチをほどき、中から額に入った顔写真を取り出します。
「お母ちゃんなんだ」
男性はお母ちゃんと呼んだその顔写真を胸の前にかざし、ガラス床の景色が見られるように少し傾けました。
「お美しい奥様ですね」
「ありがとう。一緒に上ろうって、この展望台が出来た当時によく言ってたんだよ。でも病気になってしまって、そのまま一人で天国にね」
男性はガラス床の周りをゆっくりと歩きながら、奥様と一緒にしばらく景色を眺めていらっしゃいました。ひと回りすると立ち止まり、顔写真を丁寧にポーチへと仕舞います。それから私に向けて優しい笑顔をくれました。
「ありがとう。あなたのおかげで、お母ちゃんにいろんな景色を見せてあげられた。喜んでいると思うよ」
そう言った後、にっこり笑ってお帰りになられました。
私はいただいた「ありがとう」を心の中で強く抱きしめていました。
ほんのわずかでもご夫妻のお役に立てたことを光栄に感じ、こんなに素敵な感動をいただけて、私の方こそ「ありがとう」を返したい気持ちでした。
そしてあの時、ガラス床をのぞきこんでいる男性にお声かけができて本当によかったと思いました。なぜなら私、以前はお一人で歩かれているお客様に話しかけることが大の苦手だったからです。
「話しかけて欲しくない」「ゆっくり一人で楽しみたい」そう思っているお客様がとても多いように感じていました。
でも「誰かと話すこと」の大切さに気付いてから変わりました。気づいたきっかけはコロナ禍。人と話す機会、会う機会がぐっと減ったことで、私はとても寂しい気持ちになったのです。
話すことが大好きだった私は今まで、誰かと話すことから元気をもらったり安心したり、力を分けてもらっていたんだなと気づきました。
だからお客様にも元気になってもらいたい。私と話すことで、話さなかった時よりもちょっとでも想い出に残してもらえたり、楽しかったなぁと思っていただけたら嬉しい。来た時よりも、帰る時の方が幸せだなって感じてほしい。
そう考えるようになってから、私はお一人様にも自分から話しかけに行くようになりました。
お一人様に話しかけること。一年前の私には出来なかったこの行動が、今日のご夫妻からの「ありがとう」をくれました。誰かを幸せにしたいという気持ちから始まったことなのに、私自身が幸せを感じるなんて不思議な感覚です。
私はこのエピソードを大切に胸の宝箱にしまい、元気よく撮影のお声かけを再開しました。
一人でも多くのお客様を幸せにしたいという想いを込めて。
社会人としての一年目は、またひとつ私を大きく成長させてくれました。