アイアンクロー公開初日に観て家族とか人生とかってことについて、いい歳こいて性懲りもなくまた考えちまったよ
脳みそ疲れ果てた金曜の夜、レイトショーで「アイアンクロー」みてきた。
そりゃさ、父ちゃんとか母ちゃんって幼い子供にとっては神さまだもんね。
衣食住はもちろん、頻繁もしくはごく稀にやり方は笑顔だったりハグだったり魅力的なモノだったりといろいろだけど、「愛」とやらを浴びせたりちらつかせてきたりもするし。そりゃ、神!って錯覚して当然さ。
記憶たどるとね、もう2歳くらいには神じゃないってことに感づいてるんだよね。私の場合。いや、大多数の人がそうじゃないかと思う。
家族ってコミュニティを率いる父親もしくは母親が、教育じゃなくて愛という名のもとにおかしなグルーミングをやっちゃうと、これはもう、家族っていう名の立派な新興宗教になっちゃうんだろうな。
そして、生まれた時からそこにいたら、何も気付かず、あるいは何か気づいても、そうじゃない、これは「愛」なんだから、と自分に言い聞かせながら、信仰を続けてしまうんじゃないかな。
自分の子どもを愛しながら教育するってのは、うまくやれたらいいプロセスを経て素晴らしい結果をもたらすと思うんだけど、時々生じるズレを葛藤しつつ修正するという努力を怠るとズレがねじれを生んで枝分かれもしてそれぞれの家族の変化する思いも絡みついてきて身動きができなくなる。
どう振り払おうとしても体中に染み込んでいる家族への思いは、愛、という一文字では表現できるものではないし、愛だとも言えるし愛とは違うとも言えるものだ。
愛はね、ほとんどの場合、ひどく痛いよ。
物体として存在しない、ココロ、だとしても、物理的に痛いんだよ。
映画「アイアンクロー」はひとつの家族のお話。家族の数だけ、痛みを伴った愛の物語があるんだろう。それはさ、最近見かける「親ガチャ」って言葉みたいに、当たりはずれなんて単純な考えでは分別も判断も理解もすることはできない、家族のストーリーなんだよ。
ガチャ、って言葉使うなら、親ガチャ、子ガチャ、きょうだいガチャ、学校ガチャ、職場ガチャ、時代ガチャ、国ガチャ…キリがないくらいの色々な偶然の出会い(ガチャ)が重なって繰り返して絡まる中に、それぞれの家族が生きてるってことは理解できる。
ほんとガチャガチャなんだよ。家族ってさ。
家族を愛してるかって聞かれてYESと即答できても、家族全員を大好きかって聞かれたら即答できない。
そんでもって、だから家族なんだ、っても思う。
家族をやめることは、例えそう望んでもできないんだよな、と思ったよね。
家族は自分を形成している何か…すなわち自分の人生について回るものなんだもの。
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